2008年12月26日金曜日

身体の観立て

身体を、骨格として考えたり、筋肉として考えてたり、色々な方法がありますが、体液として捉えるという方法があります。まだよく理解していませんが、チベット医学ではそのように捉えています。また、日本でも。、仁神術というのは、体液およびガス流動体と言う捉え方をして人の身体の働きを読みます。

気と言う見方もあるのでしょうが、それは、ともすると言葉の違いであって、観ている物は同じかもしれません。

それを、どの言葉を用い、感じているものをどのように加工し、そしてどう表現するか・・・人間の活動と言うものは、やはり本質的に『芸術』であると言えるでしょう。それを支える、その人の持つ『美学』と言う事になるでしょうか。

何を美しいと感じ、何を醜いと感じるかは、人それぞれでありますが、それが世の中に受け入れられるか、拒否されるか、其処に焦点を当ててい自分の生きていることを確認するか・・・あるいは、受け入れられようが、拒否されようが、そのものの命として燃え続けるか・・・私は、後者を採っていると思っています。

そして、自分が、そのものとしてあり続けることに意味を感じています。

其処から、世界を眺めています。

桔龍屋識       

2008年12月10日水曜日

芦分舟・・・あしはあしでも足なんですけど27

先の続きですが、新しいものを表現する事は、26で言ったようなものになると思います。一方、『共有する』事で、それは何になるのでしょう?観察すると、どうもそれは、一般的に言うところの『現実』になると言えそうです。

表現したことが通じない場合、その表現は破棄されて、使える表現だけが、型の様に残ってゆきます。コモンセンスと言ってもいいかもしれないですが、常識、あるいは当然の事といえるでしょう。

疑問をさしはさむ余地が無い、と言う事を、表現する際には使わない場合、何かにつけて誤解を受けます。常識的に考える人たちにとって、型を外れること、それ自体が、非常識と言うことになるでしょう。どのような集団が形成されても、その中にはその集団に必要なパターンが生まれます。そのパターン、構造自体は変わらない様で、詐欺師の集団の中にも、愛情と信頼、憎しみ、忠誠心と裏切りがあるといえるでしょう。

今までの膨大な時間の経過の中で受け継がれてきたものと、共有することで、型になってゆくのでしょうか?

まったく新しい概念と言うのは、他人に理解されないので、無いに等しいものです。それぞれの個が、何かに感応して、産み出す所のものが、一定の影響力を持つことで、初めて新しい概念は理解されるようです。

百匹目のサルと言う話は有名ですが、そのようにして出来上がったものが、伝統的なモノの流れの中には在るのでしょう。

ばか者にしか出来ないこと、と言うものがあります。

2008年12月6日土曜日

芦分舟・・・あしはあしでも足なんですけど26

常々思っていることですが、直接ある特定の人・物を知っていると言うことと、その人の書いた物や、モノの映像で知っていると言うことの違いは、何処にあるのだろうかと言う事。実際の脳内の処理はさほど差は無いはずである。感情の動きも、知識としての処理も、その受け取った人のベースに依るからである。情報としての質は、両者には違いは無い。

とすると、何処に違いがあるのか。知識による受け取りは、その概念や知識の範囲でしか展開しないので、その活用は、内面的な影響で常に誤謬を含んでいると言う不安定感がぬぐえない。

一方、直接時間と空間を共有したものとして受け取りは、概念の展開上、知識的な要素以外のモノから入る。この場合、感覚器官の精度の問題が、常にある。『先生』と呼ばれる人に習うと、その先生の持つ概念以上のものは体感できない。

簡単にいうと、意識、知識として入ったものは、その表現・意識の質は同等に出来るものの、使えない、あるいは誤解の元に、在らざるを得ない。

時間空間的な要素、身体として入ったものは、体験としては同質のもを持つが、使えない、あるいは自分のものではないと言う、事になる。

内面からくる要素と、外から来る要素を、どのようにマッチングさせるかと言う事は中々難しいもので、常に心をフラットにして、感覚を開いて、思い込みをチェックする必要がある。

『私は○○○さんと友達である』と言うだけで、何か特別な世界にいるのだという感覚を持つ人が、多いようである。また、見なければ信じないとか言う感覚も、感覚器官の精度の問題を度外視した、かなり粗い判断基準である。

確かに、それらは、一つの世界を共有しているがために起こる事なのであるから、間違いではないが、時間空間の捉え方としては、かなり勿体無い気もする。その共通の世界の、『外』にあるモノを捉えるに、意識・心という要素を使うのだろう。意識の範囲は常に誤謬を含む。いわゆる『失敗』はつき物であるが、時間空間のフィルターを通して、認識されるものに関しては、他者との共有が可能で、現実となる。

そのフィルターとして簡単に使えるのが、体であると言う認識が成り立つ。創造的身体活動と言うのはそういうものであろう。

                              桔龍屋識

2008年12月2日火曜日

お知らせ

寒さが一段と厳しさを増してきました。師走、如何お過ごしでしょうか。

さて、12月29日月曜日、大阪市中津にあるヒーリングスペース・ココロにて、揺らぎ整体・祝手内のセ
ッションを行います。朝10時から夜20時まで、一時間枠で区切って行います。


一時間  7000円
45分   5000円
お試し30分
     3000円
の、3コースご用意しました。(通常30分5000円、60分7000円の2コース)

年の瀬の疲れをとり、新しい一年をお迎え下さい。

ご希望の方は、メールにて、お問い合わせ願います。


桔龍屋 黒崎 識

2008年11月30日日曜日

11月29日 モニタリングセッション 備忘録

セッションした人の、今回の祝手内経験回数が、小さいものを含めて、4回,3回,初回と違ったことで、施術に対しての心理的な作用、その蓄積、間合いなどの変化を見ることができた。

何をしているのか、被施術者本人の自覚と言うものを確認しながらすることの必要性は今更言うまでもない。その確認の方法も、物理的な感覚を言う事で、こちらの意図や何に対して動作しているとか、双方の共通の認識を得ることが出来る。今回は心理的な状態を確認する事になった。心理的な状態が、極端に表現されていない場合も、観立ての枠を用意することで、身体の反応を見逃さないで、少なくとも状態の変化は別角度で捕捉できた。

そのため、

①何もしない常態の身体、

②手技による振動を与えたときの物理的な身体、

③相手の意識の変化を表現した身体、

④こちらの意識を感知した身体、

⑤感情や意の表現を取り除いたときの身体、

というような区別を、明確に出来たように思う。そしてそれらに複合的に反応、作用しつつある身体それぞれに対するアプローチと、施術の終了までの方向性、流れを意識的に追ってゆくことが出来たように感じれました。日本の昔風の表現で言うなら、魂を掴んで形を変える、などという感じなのだろうか、とも思いました。

知識と言うのは、実際の技術にあまり関係ないように思われることもあるかもしれないが、知識がそのまま技術になっていると言う事もあるように思うこの頃であります。フランス語のsavoirと言う言葉は、知る、と言う意味ですが、知っていることと出来る事は一緒、知っていれば出来るし、出来なければ知らないのと一緒と言うような意味で使われていたと思います。ミッシェル・フーコーの著作の中では、権利、と訳さなければならないものがあり、原書講読のゼミに単位にならないにもかかわらず出席し翻訳したところ、そのような指摘をされ、『意味の違いは埋めようが無いのだから、結局のところ、フランス語はフランス語として受け取ることしか出来ないでしょうに・・・』と思ったことがあります。決まったフレーズを使い、文章を組み立てるのが学術的なのだなあと思っていましたが、社会に出ると、そうしないと生きてゆけないのには驚きました。

紋切り型、というのは実に人がモノを認識するのに必須の構造なのでありますが、基本的には無意識に作用しているようです。意識や感情にもそれぞれいくつかパターンに分かれているのですが、エニアグラムとか、占星術とかはそのパターンの区分けの一例でしょう。

そのパターンを上手く掴んで操作、活用すると、非常に効率よく状態を変化させられると言うわけです。

あるいは、反応があれば、そこには何がしかの処理パターンが存在しているのでこちらのアプローチと選択肢の設定で違うパターンの設定も可能ではないかと思ってます。

桔龍屋識          

2008年11月27日木曜日

揺らぎで一言   まとまったもので書いてみました

揺らぎによる、自然治癒力の活性化は、整体とは一見かけ離れているようにも思えます。音楽療法と言うものがありますが、音楽を演奏したり音楽遊びをするタイプのものと、音楽を聴くことで癒しを引き起こすものがあります。実はこの聴く方に面白い報告があります。モーツァルトの楽曲には、この『揺らぎ(1/f・・・f分の1)』が多く含まれていると言われています。耳から音として受け入れますが、振動は、からだ全体で受け止めています。
周波数の低いものは、腰や尾てい骨に響き、高くなるにつれて、頭部に響きます。250hz~4000hz位まで反応すると言う研究もありました。音楽療法で、骨格の矯正が成された例は少ないですが、報告されていると言います。CDによる演奏と、生のアコースティックギターや、ピアノの響きの違いを体感したら、その振動と言うものが、頭として聴くのではなく、からだとして聴いているということが解ると思います。

金魚運動と言うものがありますが、揺らすことで、脊柱の左右の副脱臼を治すとともに、胃腸の働きを活発にする作用があります。もともと腸は、大食したり減食したり、硬いものを食べたり流動食を取ったりするために、あたかも蛇がカエルをのんだごとくある箇所は膨張し、ある箇所萎縮し、またあるところは過腸結腸といって弾力を失ったゴムのように伸びきっています。こうした腸の太さを揃え、また麻痺している箇所の神経を再び働かせ、伸びすぎた腸は生理的に正常な長さにするのが、この金魚運動の目的です。

したがってこの方法を頻繁に実行していれば便秘に苦しむことがなく、下痢や腹痛もなく、腸捻転、腸閉塞、虫垂炎(盲腸炎)に罹ることがありません。例え何かの拍子でこうした病気に罹ったとしても、きわめて軽傷ですみ、金魚運動で治ります。脊柱が左右に副脱臼しているということは、左右の筋肉にも異常がある証拠でありまして、
たとえていうなら胸椎5、6、7番が右へ湾曲しているということは、脊柱の右側の筋肉が硬直しているということです。したがって左側の筋肉は弛緩していることになります。金魚運動はこうした筋肉の硬直、弛緩も生理的に治癒します。

心臓も一定のリズムを打ちます。潮の干満も一定のリズムを表現します。実は、免疫機能も、交感神経、副交感神経の二つの変化によるリズムによって適切に働きます。昼と夜の変化と同調しているとも言います。興奮・刺激と静寂・弛緩の変化のリズムです。陰陽と例えて話をしますと、人の身体も、右左、表裏、内外の、陰陽の相関関係を見て取ることが出来ます。自律神経の活動の波は、ホルモンバランスや、筋肉の緊張など、色々なところに、現れます。

一方身体には、陰陽のバランスの要があります。腰と腹の中ほどに重心があります。また、正面から見た真ん中と、横から見た真ん中に、つまり身体の中心に軸があります。首の辺りに上半身の重心があります。腹は実の重心。首は虚の重心です。そしてそれは、呼吸によってつながっています。そして、呼吸はココロとつながって
います。
私が調整するのは、その重心と軸です。あなたの持つ身体のリズムを感じながらより良い状態になるよう、アプローチしてゆきます。
桔龍屋 識     

2008年11月26日水曜日

癒しと言うこと

ネットである人の日記をみて、想いを新たにしました。

『癒しと言う言葉がうさんくさい』ということは、少し冷静になれば直ぐにわかることです。誰かが、何かが癒してくれると言うことはありません。体が、自ら癒えて行くものです。

それを、どのような目線でサポートするかと言う事が、本来の医療の立場であると思います。

薬が、医者が治すのではありません。療法が、治すのではないです。体、そのものが活力を持って動くなら、治る物は直ぐ快方に向かうし、時間や条件が必要なものは、その条件に合致すれば治ります。

命の持つ『葛藤』、極端な言い方になりますが、生きてゆこうと言う生命力と、その生命力の更新とも言うべき細胞の死滅。それが、体感できるのが、病、と言う事が出来るでしょうか。

私は、日ごろから、病を利用して、その現象の意味を全うさせるモノは何だろうかと、考えています。

チベット仏教医学などでは、意識のあり方が病を生むとしていますが、意識のあり方の何処をどのように操作すればよいのか、頭で解っても使えないので、手の内の感覚として再構成出来ないものかと探求しています。

2008年11月21日金曜日

体の使い方

体の使い方などと題をつけましたが、今までのことを総合すると、結局は意識の使い方に行き着きます。そこで意識をどのようにコントロールするかと言うことになるわけですが、言い換えれば、自分の心をどのように扱うかと言うことになるでしょう。

ココロを解体して、アプローチするための何がしかを導き出そうとすると、そこには、欲と情の二つが出てくるのではないだろうか?情も、欲も、身体や社会を構成するための一定の、設定された反射・・・と見ることが出来る。より良い方法、手続きがあるなら、更新可能なものと『見立て』る事で、その動きを把握することは可能になると言える。

合気道や柔術系の関節技を、単に痛さの面だけで捉えると、筋肉的、骨格的な危険のシグナルとして受け取ることになる。

一方、今ある場の中での、情報の流れとして受け取ると、場の軸を変更することで、痛みと言う情報が、自分の体と、そこに生まれる反応から来る、感情、またその感情を方向付ける欲のそれぞれに分解されて、再統合しようと、あらたに情報収集し始めることがわかる。

それが行われるときに積極的に関わるなら、また面白い変化を導くことが出来るだろう。

続く

桔龍屋識

2008年11月12日水曜日

病の相

ずいぶんと間が空きました。その間に、色々な交流の中で、使っている感覚を整理できたように思います。人と言うのは、その居る環境によって、もっている能力やセンスを変化させたり、あるいは表現を限定した利しているという事を、確認したように思います。

場の意識とでもいうとわかりやすいのかもしれません。他人事のように扱えるし。スタンスを変えることで、それは変わってゆくし、同じ事をずっと言っているのにもかかわらず、意味を違えてとり、ようやくそれが通じるようになると、状況がまったく違うものとなっている。面倒な事や、感情的な事では特にありがちなのではないかと思います。

勝手な解釈というのは、つまりは、物事をすでに知っているパターンに置き換えて認識しないと、理解できないということが、物事の受け取り方の構造だからでしょうか?、状況に対するその場の参加者の認識が、いくつか現れて、それぞれの差と、実際の出来事の差が丁度良いなじみを持つまで、続きます。

一個人の中にも、そのような思い込みと、実際との差異が色々な感情や欲求となって現れているようです。時として病と現れ、時として、揉め事として現れ。どこに、どのように調整するか決めてしまえばそのように体は反応します。それが起きないのは、どの価値観で選択するか、明らかになっていないからです。

そのように捉えながら、身体のほうを調整すると、状況も程よく変化するのではないかと、検証するために、今度モニターを募って、祝手内を行います。

今後、毎月二回くらい、夕方から、夜にかけての時間帯に、行います。大阪は中津、『ヒーリングスペース  ココロ http://www.healing-cocoro.com/about.htm』に於いて開催します。

桔龍屋識

2008年8月22日金曜日

日々の変化

意識するものを変えると、対応が変わってくる。それは、徐々にではなく、即座に変わるようである。初めてせ整体術をしたころは、なかなか骨自体を意識する事が出来なく、ましてその位置の矯正と言うのは、論外と言う感じである。
カイロプラクティックの解剖実験では、筋肉をとっても、筋をはずしても、曲がった背骨は動かず、最終的に、骨を取り巻いている骨膜か何かを取り去ると、勝手に骨は元の位置に戻る事がわった。それを受けて、カイロ系の手技療法や、日本や各地にある整体術的なものは、瞬間圧を加えて矯正するのが主流である。それが危険であるのは、例を待たずに判る事であるが、そのような手技療法とは、違う角度で身体に向かうと、どのようなものの見方があるだろうか?
西武運動療法(?)のような、名前であったと思うが、そこは寝台に乗り、ベットの角度を変え、臍に軽く空気圧を与えるだけで、身体のバランスを整えていた。骨格の矯正と言う点だけでいうと、音楽療法で、骨格が矯正されたと言う事例(もっとも、それだけが原因とは言えず、何かの要因が、時間経過を経て発したともいえる)もあるし、実際私も、足を持って振っているだけで、胃の後ろ辺りの背骨の変位を矯正した事もある。直接触ることなく、その位置を調整する事は、身体を一つの袋状の塊として捉え、表面だけを意識し、そこに情報はすべて現れていると考えながらすることで、比較的容易に骨格は矯正される。

実際のところ、日常的に肉体から骨が露出するという事はありえなく、解剖学的な『常識』を共有しているから、骨はこのようにしてある、と思っているだけで、実際のところ、わからない。開けば確かにそれはあるのだから事実あるのだともいえるが、開いた瞬間、そのように見えているだけで、表面化するまでは、どうなっているかは実際問題としてわからない。私たちは何者においても、その表面しか知らないのであって、中身はどうなっていても、実のところは、憶測も出来ないのである。

表面を丁寧に探るだけで、その中の状態は、共通認識としてではなく、『私の見たもの』としてたち現れてくる。

                          桔龍屋識

2008年8月19日火曜日

この頃の変化

ふとした切欠で癖のある療術家と交流が始まっています。ふたを開けると、実は似たもの同士のようで、つまりはわたしも、かなりの偏屈。自分の中の感覚を信じて、良いもの悪いものを判断しつつ、長い間生きましたが、衝突と言うより、理解できない、理解されないと言うものばかりだったと思います。

さて、彼との交流で、私の中での感覚と、それを養う手段の確認と、表現する場が、広がっているように思います。肥田式強健術というのは、結構マニアックなもののようですが、それを研究し成果を出すと言うのは、殆ど例がないと言う事です。かの強健術は、肥田春充翁の残した道であるので、他の者は通る事ができない、と言う意見さえあります。

そう考えると、すべては、その人だけの道でもあるわけで、参考にする事は、残されたものと、それに向かう姿勢でしょう。それを自分の感覚にマッチングさせたときに、私の中に、肥田翁の意図したものが現れると思います。

前の土曜日に、友人のセッションルームを借りて、祝手内のセッションを行いました。そのとき、以前セッションされた方に、『以前と同じ肌理の細かい調整と、それに加えて、自分自身の気(血液)の流れるのを感じた』と感想いただきました。この方自体が、結構敏感な方なので、普通の人とは感想自体が違うのですが、その分、こちらの施術のときの、意識の使い方が、どう反映されているか判り、為になります。

今回は、呼吸と血流、身体の中での流動性について感じる事があり、それを反映させていました。今後それを使って、同じような手応えとか、反応を確認できれば、さらに自己の研鑽も進められると考えています。
今回のセッションに来ていただいた皆様、ありがとうございました。

                                桔龍屋識

2008年8月5日火曜日

療術の方法

最近は、真面目と言うか、冗談がきついと言うか、意識の高い療術家と交流があり、にわかに深まっています。どうも、性格や、用いている感覚は同じものの様ですが、結果できあがった世界は違うものでした。

私が、このような身体と意識の係わり合いの世界に入り込んだのは、色々要因があったのでしょうが、その最大のものの一つは『すべては私の中に用意されている』と言う予測と、それを如何様に引き出し、封印を解いて、活用する限界はどこにあるのだろうか?というものです。知識を溜め込む事によってでも、経験を蓄積する事によってでもなく、経験の質を変えることによって、本来持っているものを引き出そうと言う目論見です。
その中で、合氣系の武術に遊び、東洋医学に触発され、日本の古陰陽道をかじり、肥田式強健術を再び注目しています。10年以上前に、何気無く買った、個性豊かな著者たちの本を開けば、妙になれる感覚があります。理解するとかしないとか、と言う事ではなく、よく、肌がなじむと言えばよいでしょうか。今まで、色々な人に教えてもらった事を整理しつつ、、私の感覚も今一度整理し、純化し、強化しておこう。

そうしないと、せっかくツワモノどもにまみえる機会が来ても、存分に楽しめない。
とにかく、一筋縄ではいかない療術家が集まりそうです。鍛えさせてもらえます。感謝。

                                         桔龍屋識

2008年7月2日水曜日

生命力とその勢い

生命力は、一つのエネルギーとするなら、その舵を取るのは勢い、と言い換える事が出来るだろうか?感情というのを、その方向性と見立てると、よくわかるように思う。良い悪いという事ではなく、その感情というのは、ある価値観を持ち、何かを採り何かを棄てるその中心となっている。一方、生命力というのは、創造性とでも言えばよいのか。性エネルギーとも言い換えても良いだろうか?

野口整体の、野口晴哉氏は、人の体は勢いを持つと、不具合を自ら解消するという見解を持っていたが、まさにその通りであろう。どんなに勧められても、気の乗らないものは受け入れる事はないし、正当で理解可能なものでも、やはり気がのらないと前には進まない。

単純化してしまうと、性エネルギーも、感情の勢いも、余計な幻想を排除して、そのものとして眺めて使えば、ロスなく使えるという気がしてくる。
しかし、実際それが機能するのはすでに出来上がっている概念の中だけであるので、さまざまな幻想を関わる者に引き起こしながら、活動する事になる。あまりに創造的なセットは、誤解と無理解と嫌悪の対象になる。そして、そのような活動は自然と破壊や揺らぎを引き起こすことになる。


生体維持のために起こるそれは、不要な組織を破壊し、必要な働きを、バランスの中に保とうとする。いわゆる発熱、悪寒、痛み、不快感、発汗などの好転現象という事が出来る。

体、というのは、個々人で千差万別であるが、目が二つ、鼻が一つ、というような、器官的なところでいうと、他の生物との差、つまり人類としての『勢い』と『エネルギー』がありうると見る事が出来る。その下に、国、地域、コミュニティ、とか言う感覚的な段階がある。その下にようやく個人の持つ『感情、勢い』と『性、エネルギー』を見る事が出来る。個人のそれらは、比較的狭い範囲で活動しているので、身体的な所での『勢いとエネルギー』には、うまく反りが合わない事のほうが多いようで、病気や不具合を解消したいといっても、身体的には、必要な安全弁的なものであったりする。一旦良くなっても、すぐに悪くなるのはこのような場合であろう。

そこに、なかなか自然と、自己のそれぞれの『勢いとエネルギー』の一致を見ないところに、宗教的な世界は、色々な意味を持たせ、人格の完成という道を提示するわけである。

『勢いとエネルギー』というセットを、どの位相に共鳴させるかという事で、出来る事と、得られる情報が変化するだろう。


桔龍屋記す

2008年6月2日月曜日

肥田式強圧微動術

しばらくぶりです。祝手内というのは、実際はどういうことをしているのか、うまい説明はないものかと考えていましたが、戦前の偉人、肥田春充翁によって示されていました、『強圧微動術』という方法がありました。
体の軸や重心を揃えるのに、参考としたのは肥田式強健術の中にある丹田にある実の重心と、首にある虚の重心でした。

普通の整体術では、そこに効果的に調整してゆくのはなかなかでしたが、施術中にふと思い立ってしてみると、思うように反応があり、その時から今の方法を使い始めました。
そのとき施術した人も、もう何年も友達として付き合っていますが、施術直後は殆ど感想といっても『なんとなく軽い…かな』でしたが、四日間にわたって、日々体が軽くなっていったと、毎日報告をいただき、その効果と方向性を確認したものです・

2008年4月10日木曜日

芦分舟…あしはあしでも足なんですけど25

人に教えると、よく理解できるといいますが、私のしているやり方を人に教えるという機会に恵まれるというか、やりたいという奇特な青年がいまして、事ある毎にやり様を伝えています。もっとも、私自身が、色々なやり方を開発しつつ、整理しつつ行っているので、もしかしたら毎回言っている事が違っているかも知れないと思いつつしています。

外から見ると、やっている事は単純なのですが、いざやるとなると、思うようには行かないと言う事です。
私が、病客となって、足を預けてわかったことですが、ただ持たれると言うのは、意外に緊張すると言う事です。

力を抜いて、足を預けてくださいといっても、私の動きに合わせて足を動かしてくれる人が結構いますが、うまく振ってゆくと、そのうち勝手に力が抜けて、足を預けてくれるようになります。強引にやるよりは、病客が、自分の体について、段階的に、何かしらの非日常的な状態を受け入れるようになってくれた方が、効果的でしかも、変化の深さが感覚的にわかります。

そして、教えて思った事は、私の場合は、ニュアンスや、意味の違う、いくつかの見立てを同時に展開して、それを見ながら、反応をチェックし次のアプローチを決めているので、一つ一つの項目は単純なのですが、活用は、どうもかなり複雑にされているようです。

それをする事で、病客の持つ世界観や自分自身に対する見立てを損なうことなく、施術を加えて、状態の改善に、一定量、与する事ができるようです。


桔龍屋記す

2008年3月26日水曜日

芦分舟・・・あしはあしでも足なんですけど24

やはり普段の生活の癖の中に、不具合の変化のためのキーを埋めておかないといけないと、改めて感じました。

この頃特に強く思うのは、こちらの考えている状態が、実にダイレクトに相手に届くのだなあ…ということで、想っている事しか起きないのだと言う感じです。想定外のことがあると、充分に影響を保持でkなかったりします。

意識、概念、を如何に扱うかということに、色々な物の見方が必要になる今日この頃です。


                                        桔龍屋記す

2008年3月15日土曜日

芦分舟‥あしはあしでも足なんですけど23

そのような体制で起こる緊張の緩和も、自ずと質の違うものになり、身体と言うものの本来持つバランスには見合わない状態にその基準を作り上げているのではないか、と、考えることが出来ます。ですから、痛みや不具合を有効に利用しようと言う発想はその辺りから来ます。

先日施術させて頂いた方は、腰左半分の複雑骨折で歩けなくなる予定が、脅威の自然治癒力で回復し歩けるようになった人です。それでも、五年前から、一番きつい鎮痛剤を一日三錠、服用しなければならないような痛みが残っていると言うことでした。
色々整体とか行かれたようですが、痛みが取れず、取れても話しているうちに、また痛みがでて来ると言うことばかりのようでした。

他の用件で私に興味を持って頂いたようで、その事のついでに、施術を受けてみようと言うことでした。

結果的に痛みはそのとき取れ、メールで様子を問い合わせたところ、次の日の昼間では何ともなく、くしゃみか咳を切っ掛けに、痛みがでるようだったので、用心して薬を服用したと聞きました。
痛みはあるものの、その痛みは、激痛だった以前よりだいぶ軽減したと言うことで、喜んでらっしゃいました。

さて、そのときの施術は、恐らく事故のときの状態を身体が深く記憶しているために、なかなかその処理を終えないのではないかと言うことで、色々話しました。

施術後歩く姿をみて、そこに取りこぼしていた日常生活の動きがあり、無痛状態はなかなか続きにくいなと思いましたが、やはり普段の生活の癖の中に、不具合の変化のためのキーを埋めておかないといけないと、改めて感じました。首の骨と腰から仙骨の領域は相似的に捉えることが出来着るので、首周りのストレッチを御願して、一回目のセッションは終了しました。

桔龍屋記す

2008年3月5日水曜日

芦分舟‥あしはあしでも足なんですけど22

手法が大事なのではなく、実は、どの様に見立てているかと言うことがやっていることの90%以上です。それをどの様に共有するかと言うことに、残りを使います。病客の感覚と意識の状態に、効果的な間合いで入ってゆく必要がありますが、どうも呼吸を読んでいればその間合いに入るようです。武術的に呼吸を観て相手の間合いに入って行く時と同じではないかと思います。

見立てが正確でも、病客のイメージと合っていないと効果自体があまり長続きしないように思います。特に私の場合は、相手の持っている癖そのものに、アプローチしますので、こちらに反応しているモノより更に深い部分の状況を探って行きます。

物事と言うものは、こちらのしたことにしか反応を示さないので、そのフェイクに引っかからない様に気を付けることが必要になります。

その意味で、施術自体が不快や痛みを伴うか、それとも、心地よさや、気持良さを伴うかは、その施術自体の性質を表す場合があります。痛みを伴う場合は、病客の身体を臨戦体制に持って行くことが、その免疫機能の活性化を促しますので、その方面の不具合には利きます。

一方、リラックスや快感を伴う場合は、身体を休息モードにしたときの免疫機能を活性化しますので、その方面の不具合に有効です。

現代人は、身の危険に晒されることなく過ごしているような錯覚の上に、生活を構築しているので、その仮想の中で予想され対処される危険にしか敏感には反応しませんから、食糧が手に入らないとか、他の動物に襲われるとか、毒物によって中毒するとかと言う、人間本来遭遇する生命的な危機に対しての反応をかなり歪んだ形で体現しているように思います。

そのような体制で起こる緊張の緩和も、自ずと質の違うものになり、身体と言うものの本来持つバランスには見合わない状態にその基準を作り上げているのではないか、と、考えることが出来ます。ですから、痛みや不具合を有効に利用しようと言う発想はその辺りから来ます。


桔龍屋記す

2008年2月28日木曜日

芦分舟‥あしはあしでも足なんですけど21

陰陽の差が認識できた後は、只それをバランス取れるようにすれば良いだけで、それを何処に基準を持ってバランスさせるかと言うことが大切になります。

実際、陰陽がそれを感じとる人自身に対して正確に読み取れていれば、あとは、どの様な対処も可能です。そのバランスを取ると意識が働けば、そのように術者の身体は働きかけますから、漢方薬の処方であれ、音楽療法であれ、どの様な手段でも、陰陽を見立てた時と同じ手法の流れの中にあるなら、利用可能です。

その意味で、手法は一定ですが、その活用は状況次第で常に変わります。
手法が大事なのではなく、実は、どの様に見立てているかと言うことがやっていることの90%以上です。それをどの様に共有するかと言うことに、残りを使います。病客の感覚と意識の状態に、効果的な間合いで入ってゆく必要がありますが、どうも呼吸を読んでいればその間合いに入るようです。武術的に呼吸を観て相手の間合いに入って行く時と同じではないかと思います。

ということは、最初に掴むときに探るのではなく、その前に、終了しているように見立てを、完了しておく必要があると言うことですね。この、意識の持続感は面白いので、今後常に使ってみます。

桔龍屋記す

2008年2月26日火曜日

芦分舟‥あしはあしでも足なんですけど20

だから、好きな事に置いて起こるストレスは成長へと導きますが、不本意なことをして起こるストレスは停滞以上のものをもたらさないようです。

さて、いままで、色々並べましたが、実際思う以上に、身体には染み着いた思考パターンがあります。そういう状態を理解した上で接する必要があります。実際にどのような手順で、身体にアプローチしてゆくかと言うと、触れた場所から、まず陰陽の差を読んでゆきます。これは針灸などの東洋医学で行われる物と共通しています。皮膚感覚による、左右の大小や、熱さ冷たさ、張り具合、硬さ、湿り気、触れたことに対する反応、等、感じれることの全てをそこで感じます。
そして、そこから延長して身体の中の状態を、探ってゆきます。意識を向けると反応があります。それを音として感じたり視覚的に感じたり、触覚として感じたり様々ですが、私の場合は専ら、色、形で感じる方が多いです。探っているときは音的に感じているようですが。

陰陽の差が認識できた後は、只それをバランス取れるようにすれば良いだけで、それを何処に基準を持ってバランスさせるかと言うことが大切になります。

痛みを取ることに集中すると、折角の生体反応を阻害する事もあり、根本的な解決を先送りすることにもなりかねません。

基本的に必要なのは、重心の取り方で頭部と腰部それぞれの重心に合わせる事です。それが呼吸と揃う必要があります。

実際に整体術をするところは、背骨をどうこうするわけで、手順としてはこの三つが含まれていますが、あまり良く感覚された上で施術はされていないようです。

それを合わせる時に、身体の癖に乗せて、自覚させながら誘導すると、良い結果に結び付くようです。

またこれは私の考えですが、今痛みが取れるより、生活の中で回復して痛みが取れた方が、有用であると思うのです。施術完了時をピークとするのではなく、それから日常に戻ったときに、その癖を利用して経過し痛みが取れると言う、後からピークが来るようにしています。個人差はありますし、同一人物でも、その時々で差はありますが。


桔龍屋記す

2008年2月22日金曜日

芦分舟‥あしはあしでも足なんですけど19

風邪の発熱は、ピークを迎え下降して、一旦平熱より低くなり、調整を完了して平熱に戻ると言う事が野口晴哉氏の観察で言われていますが、大人に意識の変化が観られにくいと言うのは、その低い時に安静にしていなければならないと言う事があり、家庭で無条件に生体反応で生活できる場と言うのは、およそ幼児期にしか求められないからではないかと考えます。平熱に戻ると、動いてしますのでそれがなかなか叶わないようです。

社会生活を行っていると、実際の身体の要求とそぐわない行動を取らざるを得ない場合が殆んどです。
身体に掛ける負荷は、免疫機能に対するもの、例えば傷を化膿させて、新しい組織と入れ換えさせる事や、危険を察知して、身体を臨戦体制にすると言うような、非常に基本的で、必要なストレス以上に、いちいち頭で理解し識別しなければならないような類のストレスが多いようです。結果身体の欲しいストレスと、社会が強要するストレスの二種類以上のストレスを処理しなければならなくなりました。

だから、好きな事に置いて起こるストレスは成長へと導きますが、不本意なことをして起こるストレスは停滞以上のものをもたらさないようです。

桔龍屋記す

2008年2月16日土曜日

芦分舟‥あしはあしでも足なんですけど18

一般には、その調整の作用自体を、病気とかと誤認したり、不安によって変質させて病にしてしまうことがあるように思えます。不安を夢で悪夢に成長させ、現実的に不幸を呼び寄せるのとおなじことでしょう。不安を取り除くか、他の区分けにリンクし、後は自然治癒力を促すことで、区分けの更新は行われると考える事が出来ます。

身体の調子をどの線をもってして、健康と病態に分けるのかと言うことは、その生き方によると私は考えます。一般的には医者、もしくは医療機関等の示す評価に従ってそれを決め、確認し、対処すると言うことになります。

極端な例ではありますが、某療術家のエピソードがあります。長年見ていた女性の定期施術の時、間もなく亡くなると言う事を、側近に漏らし、司法解剖のとき、医者が何と言うか見ものだねぇ‥と言ったいいます。はたして、言った通り、一週間後に亡くなり、司法解剖の時、子宮は老女なのに20代、しかし全身に癌が発症していたそうです。その女性は、医者には決して身体を観せないで、その療術家だけを信頼していたと言いますから、その療術家の世界観の中で生きていたことになります。

だからと言って、全ての人が自分の信じている世界観の中だけで生きて行けるわけではなく、たとえ現代医療を拒否していても、その全て、つまりその診断した病気のあり方から、現象、対処法、治療法、世界観の一切を否定したと言うより、その一部をなんとなく気に入らない、もしくは納得しないと言うことの場合が多いように思います。

病気の概念と対になって健康と言うものがある以上、健康体に付いても再構成する必要があり、とても一人で出来るようなものではないでしょう。また、誰かの考えた健康や病気と言うものに身を任せると言うのも、一人でその概念を構築すると言う事と同じくらい危険で、無謀では無いかと思います。

では、どの様に対処しようかと言うのがそこから出て来ます。

一番簡単なのが、身体の反応力のみを円滑にし、原因と結果には拘らないと言う方法があります。自然治癒力を高めると言うことと方向性は同じであると言えます。先の例では、その某療術家は、結局腹さえ出来ていれば問題無いのだ、と結論したと言いますが、それは、古来より身体の鍛錬法に必ず出て来る丹田が活性であるかどうかと言う問題です。

方向性は同じであると言いましたが、全く同じではないと言うことです。自然治癒力を活性化して治ると言う場合と、同じくらい起こるのが、意識が変化して治ると言う場合があります。と言うか、この場合は、子どもに良く観られますが、熱を出す度に、精神的な対応が変化してゆきます。ですから、この場合は精神的な変化が先か、治癒の結果精神的に変化したのか、どうとも取れますが、自身の経験と実験からでは、精神的な変化は、治癒を導きます。音楽療法などをみるとそれらに付いての考察があるでしょう。

風邪の発熱は、ピークを迎え下降して、一旦平熱より低くなり、調整を完了して平熱に戻ると言う事が野口晴哉氏の観察で言われていますが、大人に意識の変化が観られにくいと言うのは、その低い時に安静にしていなければならないと言う事があり、家庭で無条件に生体反応で生活できる場と言うのは、およそ幼児期にしか求められないからではないかと考えます。平熱に戻ると、動いてしますのでそれがなかなか叶わないようです。

丁度、先日辺りから、寒気がしていまして、一日寝込み、その間に、次の日の計画をたてました。普通に生活しながら発熱を促し、次の日の休日に最低体温に成るであろうと予測して寝ていました。

寒気がしていたので、今まではその寒気には保温と言う対処しかしませんでしたが、今回はその震えを、何か違う情報に書き換え出来ないか、色々試してみました。なにがどう変化したかは、はっきり言葉には出来ませんが、少なからず手応えを感じたので、今後何かに使えるかも知れません。

さて、結果的には、本日土曜日は、一日体温をはかりながら寝ていました。一時、35度6分位に落ちて36度6分位に戻りました。今また、37度ですが(笑)動けるので別に良いです。

桔龍屋記す

2008年2月12日火曜日

芦分舟‥あしはあしでも足なんですけど17

その地平で見るとき、外界があって、身体がそこと関ることで、身体そのものに変化がある‥と言う図式では、呪術も外科的処方も、医薬品も、全く同レベルのものであると言うことを、確認しておく必要があります。

そういう見方をすること自体が、なかなか難しく、一見、現代医学を否定しているような印象を持たれることがありますが、むしろ其々の適用範囲を明確にするための、生活手段であります。
其々の療法は、適用範囲と使い方、信頼の置き方を間違えると、命を落しかねません。術者がその範囲外の事をしようとするとき、問題を起こすことになります。

どんな身体でも、外界の刺激に、その出来得る範囲で反応をしています。出来る範囲、と言うのはつまりはリミッターが付いていると言うことなんですが、それが、人それぞれの持つ常識と言われるところの、根拠の無い共通の見立てであります。

法律が一定の規則であり、変えることが出来ない程堅いものであると言うのを信じている人は居ないと思いますが、それでも、内容こそ違えども、法律的な区分けは、必ず機能していると言うこともまた、無視できない事であります。

身体的な故障は、この意味では、区分けの範囲を越えてしまった事による不具合と言うように例えることが出来るかもしれません。区分けの範囲に戻ることが、自然治癒力の現れと言うことが出来るでしょう。そのとき、発熱や痛み、悪寒や排泄の異常など、調整の作用があると言うことになるでしょうか。

一般には、その調整の作用自体を、病気とかと誤認したり、不安によって変質させて病にしてしまうことがあるように思えます。不安を夢で悪夢に成長させ、現実的に不幸を呼び寄せるのとおなじことでしょう。不安を取り除くか、他の区分けにリンクし、後は自然治癒力を促すことで、区分けの更新は行われると考える事が出来ます。

桔龍屋記す

2008年2月5日火曜日

芦分舟‥あしはあしでも足なんですけど16

痛みを、痛みとしてではなく治癒の作用の一則面として観ると言う事と、そこから来る情報を、現在の身体の歪みや、不具合に、適切に渡すことで、現在の動きをそのまま活かし、変容させることが出来ないだろうか‥と言うのが、祝手内へと至る、着想です。

そのようなプロセスは一般的には、自然治癒力と言われる過程ですが、それに、どう関ってゆくかと言う事になります。
普通それには、身体の機能を正常化する、あるいは活性化する事で、免疫機構を整え、自然治癒力を高めると言う手続きになります。それには、質の良い材料、つまり食糧ですが、それを、十分に消化、つまり身体が使える状態に変質させ、そして、それを免疫機能等のために使い自然治癒力を活性化させると言うことになります。

これは、分子生物学的なアプローチで、現代医学、解剖学的な見立ての延長と考えて差し支えないと思います。

東洋医学では、医食同源と言いますが、食物は、消化され、栄衛となり身体を巡ります。それを巡らせるのは気血です。気は、いわゆる「気」です。血は血。衛は生体反応ー生体現象、栄は滋養作用という区分けが成立するでしょうか。

それでは、手技として、それをどの様に観て行こうかと言うことですが、手技としては、食に相当するものは、対象になる身体以外の環境として見立てた方が良いように思います。どう言うモノを食べていたかと言うより、食べたものにどう反応しているか‥を正確に読み取る必要があると言うことと理解しています。栄養があるものでも、食べ過ぎや、食傷している場合は、吐き出した方が良い時もあります。

具体的には、触覚と視覚、聴覚をリンクさせて使います。触覚で分かるのは、重さや大きさ、湿気、温度です。あと、動き具合の滑らかさ等を知ることが出来ます。
視覚では、色や、形、捻れ具合。
聴覚では、声の玻璃、空間の状態、間合い等を見ます。そして、それらの全てを、一番気に留まる箇所に一極集中させて、その箇所の状態を、全て同時に感覚すると、処理仕切れずに勝手に必要な情報にまとまります。それが、どの状態にあり、どこへ向かい、どの様に変化するのかを、見立ててゆきます。

ここが、一番難しいと言うか、危ういと言うか、そういう部分でしょう。思い込みが入ると、その思い込みを保証するような情報しか組み立てられず、治癒と言う方向には進めないようです。

一般的には、外科的処方、薬品による処方が、病を駆逐する方法論としては正しい様な印象を持ちますが、それは、解剖学的な身体が人間であると確認し承認された環境で言えることで、解剖学的身体を拒否した環境に於いては、極端な場合、全く機能しないことがあり得ます。
そのような環境、例えば、未開地等と区分けされる世界に於いては、呪術的処方の方がより完成度の高い治療をおこない得ることがあります。
そこら辺の事情は、医療人類学と言う分野に尋ねるのが、事例を多く目に出来ると思います。

その地平で見るとき、外界があって、身体がそこと関ることで、身体そのものに変化がある‥と言う図式では、呪術も外科的処方も、医薬品も、全く同レベルのものであると言うことを、確認しておく必要があります。共通の認識も、それ自体が実は幻想であると言うのも、神経に余裕があるなら、改めて確認すると良いでしょう。


桔龍屋記す

2008年2月4日月曜日

芦分舟‥あしはあしでも足なんですけど15

いろいろと認められると、やはり嬉しいものです。

最初に、整体を始めたときは、いわゆる中国整体のスイナ術で、国際整体なんやらの教本とおなじものでした。急激な操作をしない、比較的安全な方法のみによる手技療法でした。しかし簡単な分、頑固な凝りや慢性的な症状には回数を重ねると言うアプローチしか無く、非常に物足りない感がありました。

それと、日常生活で出来上がった癖は、それ自体で必要な状態を経過すれば、解消するのではないかと言う目算があり、丁度、風邪が経過すると、身体が整うのだと言う、野口整体に観られる着想と同じです。

と言うのも、痛みに対する療法は、まかり間違うと、痛みだけ取れたら良いと言う、対症療法の、それもかなり御粗末な方法論に達するのでそれは避けて通るべきモノでした。
痛みがあると言う自覚は、一方で、その症状に反応し、治癒させようと言う働きの表現に他なりませんから、痛みを感じないのは、只の麻痺です。

痛みを、痛みとしてではなく治癒の作用の一則面として観ると言う事と、そこから来る情報を、現在の身体の歪みや、不具合に、適切に渡すことで、現在の動きをそのまま活かし、変容させることが出来ないだろうか‥と言うのが、祝手内へと至る、着想です。


桔龍屋記す

芦分舟‥あしはあしでも足なんですけど14

これは、他者との共通のものではないので、自分が一番、等と思っていると、失敗します。

さて、今日は節分で、本来の新年であります。明けましておめでとうございます。今日から先、はじめてみた夢が、初夢と言うことになります。どうぞ、良い夢を‥良い夢と云いますと、今はあまり言わないのかも知れませんが、一、富士、二、鷹、三、なすびといいますね。諸説ありますが、三大仇討ちの事をいい、滅多に無い事の意味であると説明されると、なるほど、と思います。

『一は「富士」の裾野が舞台となった曽我兄弟の仇討ち、二は忠臣蔵の播州浅野家の家紋(違い鷹の羽)が「鷹」であった。そして、三が伊賀上野の鍵屋の辻で、事を成す「茄子」荒木又右衛門の伊賀越の仇討ちにちなんだともいわれてる。』Web上で調べたものです。一部間違えでしたので訂正しました。結構いい加減ですが、私も間違えていることがあると思うので、まあ、直せるところは自分で直すと言うことで(笑))

これは、師匠が赤穂浪士の子孫であると言うことにも関係しますが、其々の伝承は、その流れの質を伝えていると思いますので、伝承の内容以外のモノが結構重要だったりするのではないだろうか、なんて思ったりします。

さて先日は、優秀と言うか、天才と言うか、気功整体師に私の施術を受けて頂き感想を聞かせてもらいました。真っ当なやり方で良いと思う‥何せ、薄々は感じておりましたが、やはりこの業界でまともに身体を観る事の出来る整体師は少ないとのことです。
きちんと身体を観てますね、と言う事で何やら卒業検定を受けたような気分でした。

施術に関して、予想だにしない感想では
「御見事」
と言うのがありました。いろいろと認められると、やはり嬉しいものです。




桔龍屋記す

2008年2月1日金曜日

芦分舟‥あしはあしでも足なんですけど13

知識と言うのは、頭で理解していると言うことの云いに他なりませんが、身体で理解させると云うのは、一見時間が掛かるように思えますが、火傷をしたとき、気付いたら熱くなったヤカンから手を離していたと言うことは誰しも経験したことであると思います。

その一秒未満でその感知と動作は終了します。身体が認識するには、一秒に満たないじかんでその是非を感覚します。

身体の記憶と言うものは、そのような反応の集積でありますが、それは、意識的に呼吸を介在させながら関ることが出来ます。
武術、特に古流のものは、ゆっくりとゆっくりと動作するものがありますが、それは呼吸と合わせて、動作を記憶させていると言うことです。

さて、何故身体の鍛え方を注目するかと言うと、自分の身体の認識が変わると、その分、他人の身体が解る様になるからです。意識し、其々の部分や箇所の差異を感覚することで、細部に関する情報を、自分の感覚からなる見立てで使うことが出来るようになります。

これは、他者との共通のものではないので、自分が一番、等と思っていると、失敗します。

2008年1月30日水曜日

パンフレット

何人かの方からパンフが、一般的ではないとの指摘があり、ん~確かにそうなんですが、どうしたものか。施術受けて方で感想なんかきいて、作り直そうかと思っています。

2008年1月29日火曜日

祝手内〜はふりて セッションご報告




去る1月27日(日)に、兵庫県芦屋市にある、ヒーリングサロン マグノリアにて、無痛身体調整法 祝手内〜はふりての、セッション会がありました。


遠くは名古屋や、奈良県からもお越し頂き、好評のうちに、落ち着いた空気の中で終えることが出来ました。
来て頂いた皆様、ありがとうございました。

足首を持ってまずその重さと、温度、太さ、意識の届き具合をチェックします。そのあと軽く振りながら反応と、揺らぎ方を見て、最初の緩める対象を決めます。

足を、交差させ、股関節と蝶骨、腰椎等、足から腰を経由して、肩、首へと繋がり方のチェックをします。

その後は、緩めながら、逐一反応を見て、その不具合の質を判断しながらバランスを取って行きます。一段落したら頭部の調整をします。支持するポイントを変えながらゆらし、掌で、包み込みながら呼吸を読みながら圧します。頚椎の並び具合を調べながら、登頂から足に通じる様に角度を合わせ、牽引、捻転し、可能な場合は、呼吸に整えます。

芦分舟‥あしはあしでも足なんですけど12

そういう意味では、想いが形になって行くことは、その内容の貴賎に関らず芸術的であるとも言えます。

人間の根本的なあり方には芸術性は欠かせないと言うことが出来るでしょうか。

人と人の関りと言うものを基本に考えると、そのような態度で臨むのがこちらの意図も、相手の意図も損なうこと無く場を作ることが出来るのではないだろうか。
その状態でどの様な方向性に進むかと言うことを、接触を通して行うと言うことになるでしょうか。

そういうわけで、癒しと言われているものも含めて、代替医療の分野は、明らかに現代医学とは、その基本スタンスを異にしていると言うことを確認しておく必要があると思います。
現代医学の基本経典には、ユナーニ医学というイスラムの古典がありますが、その内容はどちらかと言うと東洋医学的な対症法が載っています。歴史の流れの中のある地点で、モノの捉え方が、今私達がしているような視点へとシフトして行ったわけですが、今の時点から、それを検証するのは、今私達が前提としている世界の解釈の仕方の癖を良く意識する必要があるでしょう。とは言え、その癖の中で思考し行動するので、そのような状況があると意識すること自体が、ある視点と他の視点の差を取ることの基本となると思います。

東洋医学の基本技術は、そこにあるものの差を取って行くことであると、理解しています。
特に手技に於いては、触覚で解るもの、大きさや温度、湿りけや形が、左右上下、内外での差を取って、そのバランスを取ることが基本になります。

そのバランスを見立て体系化したものの一つが、経絡であると言えます。ツボや経絡の場所を知っていても、それをどの様に使うかは、それらのバランスの関係性を、体感的に把握する必要性があります。

知識そのものとしては、使えません。

桔龍屋記す

2008年1月28日月曜日

芦分舟‥あしはあしでも足なんですけど11

そういう意味では、私がするような整体は、アーティストに一番受けて頂いたら良いのかも知れません。一般的な筋肉疲労や骨格の変位、エネルギー療法的な対応、アプローチもありますが、きっと芸術的な仕事の一助になるのが一番嬉しいことでもあるでしょう。

芸術と言っても、価値があるかどうかは問題に出来ないので、その人がその人なりの興奮と躍動を感じることが出来たなら、その作品は、その瞬間芸術であって、それが生まれ落ちた後、芸術的であるかどうかはその時々の環境が保持するだけなので活動そのものには優劣はありません。

しかしながら、それが認められる事によって、世界に影響が与えられるのも、芸術の場合は格別に嬉しい事であります。新しい作品が喚起する価値観の変化は、世界を変化させて行きますから、実に、文字通り創造的な作業となるものです。そういう意味では、想いが形になって行くことは、その内容の貴賎に関らず芸術的であるとも言えます。

人間の根本的なあり方には芸術性は欠かせないと言うことが出来るでしょうか。


桔龍屋記す

2008年1月26日土曜日

芦分舟‥あしはあしでも足なんですけど10

呼吸を自分の身体のリズムとして考え、寝ると言うことを、太陽の運行の体内リズムとして関る事が可能でしょう。

野口晴哉氏の言うように身体が好きなものに向かうと、途端に今まで調子の悪かったものが、痛みも不快感も無く、動けるようになることが良く体験されると思いますが、子どもなんかを見ていると、不快感以上に楽しいと、トイレに行くのも忘れているのを良く見かけます。

それは同時に、危機感と言うモノに導かれたときも、火事場のナントヤラで、異常な行動力を発揮します。つまりは、緊張と弛緩、攻撃と養生と言うものは、常に必要なリズムの要素で、それぞれの要素だけを取り出して、これによって治るので、他は病の原因であると言うのは、全くのでたらめであります。

野口晴哉氏の場合は、どうも、腹が出来ていたらどうにでもなる‥と言うのが結論であったようで、それは古来から見られる身体技法にある、丹田の充実と言うことになりますが、その充実を何を持ってするかと言うのが其々の分野の個性、特色と言うことが出来ます。また、その充実の限界線をどの様に設定しているかと言う事で、その世界観が見て取れます。

各々の持つ世界観の中で、何を善さと考えているのか探りながら、身体を操作する訳ですが、そうすると、状況が変化しない、つまり病客にとっては、治らないと言うこと、もしくはすぐ元に戻るような事が起こります。

良く言われるように、その病や不具合を無意識の内に求めている場合がそれで、やさしくされたり、待遇が良かったり、頑張っているような錯覚が嬉しいと言う人は結構居ます。

ただその錯覚をすることで、必要以上に現実を受け入れなくても良い体制が出来ているようなので、それを崩すと精神的に破綻する方向に向かうようです。自ら向かうときは破綻しない様で、回りから追い込まれた形だと、きっと破綻するようです。

どの様に、限界の設定を変更するかと言うのは、どの世界に於いても、創造的な仕事とですが、健康についても同様にそれは、創造的な作業とみなすことが出来ます。

そういう意味では、私がするような整体は、アーティストに一番受けて頂いたら良いのかも知れません。一般的な筋肉疲労や骨格の変位、エネルギー療法的な対応、アプローチもありますが、きっと芸術的な仕事の一助になるのが一番嬉しいことでもあるでしょう。


桔龍屋記す

2008年1月25日金曜日

芦分舟‥あしはあしでも足なんですけど9

引いては、人間をどの様に捉えるかと言うことが要点となります。今の知識で健康と言うことは、それほど確かなものでも、また善いものでもないと言うことでもあります。

常におなじ状態と言うものは無く、それが一定に見えていると言うことは、周囲の変化に対応仕切っていると言うことでもあります。野口整体で言われるように、風邪は病気と言うよりはむしろ、外界の変化に対応するための、身体の適正反応と見ることが出来ます。

と言うことは、風邪に限らず、各種の不具合は、その対処の仕方如何でいか様にもその後の状況を選べると言うことでもあります。それを意識的に観察するか、常識的に観察するかの、対応の差によって、得られる情報の質には雲泥の差がでると言えます。

しかし、難しいのは、その感覚に対する自信と言いますか、その感覚が適正なものか、調べる術は無く、というのも、個々の状況によって、こちらの反応の基準も、常に変化していると言えるからであります。

私、が、どう、感じているか?どうしたいか?
私、が、何を認め、何を拒否するか?

それだけしか、そこには確実のものは無いと思えます。極、閉鎖的な感じに成るかも知れませんが、解るものにだけ解る、もしくは、その感覚もつ限界までしか解らない、と言うことになります。

勢い、と言う詞で良く言われているようですが、身体と心が合致して、それに向かう‥つまりは、楽しいことに、面白いと感じることに、集中しているかどうかの問題であるとも言えます。

その究極の状態は、死ぬか生きるか‥と言う境目で、いうなればその状態は日々起こっている一瞬一瞬の変かでありますが、それを夢とうつつに見立てたのが日本の感覚の中にあるようです。

夢の間は魂があの世に行くと言う考え方がありますが、起きている、うつつ、の間は生き、寝る夢の世界は死後であり、起きてまた生まれると言うサイクルの見立ては、自分の感覚の変化を認識可能なサイクルとして認知する、と言うことなのかも知れません。太陽の運行のサイクルと言えるでしょう。

呼吸を自分の身体のリズムとして考え、寝ると言うことを、太陽の運行の体内リズムとして関る事が可能でしょう。

桔龍屋記す

2008年1月23日水曜日

芦分舟‥あしはあしでも足なんですけど8

何かを意図せずに、行うことに、この療法の要がある‥と言うようなことを、天真療法の創始者、肥田春充氏はおっしゃいましたが、本当は全ての手技療法は、そのようなもので、意図を持つと、かえって十分にその機能は発揮できないようです。


先にも言いましたが、心が動くときには触れないのが肝要であるとは、江戸時代の按摩の手引書の注意書きにある通りですが、裏を返すと、術者の思っている身体や精神、人間像がそのまま影響すると言うことでもあります。

時代性と言うものも、意識するしないに関らず、また、それを受け入れたり、拒否するしないに関らず、反応しているものですから、それも術者と、病客の関係の中で、同時に相互に影響しあっています。

健康に対する知識が病を創り出すと言うことが、往々にして起こっていることです。どうしたら善いか分からないのは身体に、そして、その場を仕切る集合意識的な働きに任せたら良いわけですが、明晰な知識であればある程、その場合身体や、場の本来持つ自浄作用はその知識内に限定されて活動すると言うことが出来るでしょう。
プログラムとかでは、そのプログラムを動かすために、他のそれとは機能的に関りの無いプログラムが依存関係として必要になることがあります。複雑な機能を持つ物であればある程そのような依存関係がありますが、その関係ないプログラムがインストールされないと、結局本体のプログラムはインストールできず、機能しません。

それと同様に、身体をどの様な視点で見立てるかが、その病気のプロセスを消化させ、持っている機能を活性化させるかさせないかのポイントになると考えられます。

引いては、人間をどの様に捉えるかと言うことが要点となります。今の知識で健康と言うことは、それほど確かなものでも、また善いものでもないと言うことでもあります。

桔龍屋記す

2008年1月22日火曜日

芦分舟‥あしはあしでも足なんですけど7

またほとんど、共通で、へその下に位置する丹田に気を集めて行きます。その集めたり、身体にめぐらすルートには様々なパターンが存在しますが、これもほとんど共通に、いわゆる東洋医学の経絡に相当するものの幾つかに沿ってめぐらせて行きます。


ヨガの場合は三本の縦に走った管状のものを想定するようです。チベット密教も、基本は三本の管ですが、それぞれ、分岐して、結構な数になって居たと思います。東洋医学は十四経絡が有名ですが、その他、奇経八脈でしたか、十四の内、督脈と任脈は奇経なので、正経は十二に成ります。

仙道の小周天は、督脈と任脈を使うものですが、そこに気を呼吸にのせて巡らします。

このような行は、背骨に付随するようなイメージで腹と口鼻を背骨で結んだ線を定規のようにして、呼吸をコントロールするようです。実際のところ、どれほど厳密に実行したところで、体験したことの無い感覚は、無理にそれを表現するための制約されたイメージの中で、取りこぼされることになります。

その場合有効な精神状態として、無心‥と言うものがありますが、極度の集中で達成されると思われている、瞑想の最良の状態と言うことも出来るでしょうか。

何かを意図せずに、行うことに、この療法の要がある‥と言うようなことを、天真療法の創始者、肥田春充氏はおっしゃいましたが、本当は全ての手技療法は、そのようなもので、意図を持つと、かえって十分にその機能は発揮できないようです。



桔龍屋 記す

芦分舟‥あしはあしでも足なんですけど6

人にとって、肉体的にも精神的(神経情報)にもそれが分かる形であるもの、関れるものは、呼吸と言うことになります。

呼吸については古今東西色々な表現や手法、行法、解釈入り乱れておりますが、大きく分けて、自然な呼吸をするのと、強制的にリズムをつけるものとに分けれると思います。概ね、鼻から吸って口から吐くのは共通しているのではないでしょうか。

昔話題になった、韓国の武術、借力(しゃくりき)は、覚えている限りでは、呼吸の仕方が、とても面白く、吸って、何秒止めて、何分の一吐いて、何秒止めて、何分の一吐いて‥と、順に難易度をあげて行く様なものでした。

仁神術という、日本発祥の手当療法がありますが、と言っても、日本ではほとんど知られていないし、アメリカばかりで流行ってしまったようですが、その創始者が、初心者に行わせるのも、簡単な丹田呼吸法です。意図的に何か能力を向上させようとする場合は、吸って、止めて、吐くという呼吸方法になるのがほとんどではないでしょうか。神仙道や導引気功、ヨガは、どちらかと言うと、禅の様に静止、もしくは坐禅、アグラ、正座にて行うものが多い様に思います。

一報、中国北派と言われるような拳法や太極拳、日本の古流の武術や合気道等は移動して全身で行うそれとも見えます。坐禅にも歩き回ってするものもありますが、それぞれ向き不向きがあるということは忘れては成らないですが。

また、祝詞や、宗教儀礼の中で行われる発声は、その発声の内に、リズムと意味と響きがあり、正しく行われると、同様の効果があると言えます。

またほとんど、共通で、へその下に位置する丹田に気を集めて行きます。その集めたり、身体にめぐらすルートには様々なパターンが存在しますが、これもほとんど共通に、いわゆる東洋医学の経絡に相当するものの幾つかに沿ってめぐらせて行きます。

桔龍屋 記す

2008年1月20日日曜日

芦分舟‥あしはあしでも足なんですけど5

それを逐一処理するのは非常な浪費であるので、共通に認識していると言うプロトタイプを、つまり常識ですが、それを用いることで、浪費はほとんど起こらないと言って良いのではないかと思えてしまう位なのではないだろうか。

その分、余力を創造的な活動に用いるのが、完全燃焼させるには良いと思われますが、一般にはそういうわけにも行かないようで、また、どの方向に創造的であるかと言うのは各々の癖と言うものがあり、場合によっては、あまりよろしくない方向に創造的である人がでて来る事にも成るが、それは致し方の無いことであります。

どれほど優秀な人ばかり集めても、その中でやはり優劣と、働く人とサボる人がでて来るのは、それこそバランスを取っているわけであります。そういう事も考えますと、定めて組織的であるのは、流動性を必要としていると言うことでもあり、人体にとっては、その低き汚き部分の担当は幾つかありますが、正常に滞りなく機能している場合は、汚れや不要物を排泄する事は必須の事態です。

人の身体も淀み無く流れるのが良いわけですが、只の素通しでは、栄養の摂取も、分配も事欠く訳で、そこに自ずから、消化しては流す、貯めては流す、醸しては流す、というリズムが生まれます。バイオリズムとか言うのでしょうか?自分で分かるのは呼吸ですね。ホメオスタシスとは恒常性と言われますが、生体の内部や外部の環境因子の変化にかかわらず、生体の状態が一定に保たれるという性質、あるいはその状態のこと。生物が生物である要件のひとつであるほか、健康を定義する重要な要素でもある。生体恒常性とも言われる。

流動的な世界にあってそれに意識を持って行かれること無く、何か定まったものがあるように錯覚できる、身体的な機能です。流動的であれ、恒常的であれ、それを認識するのにも、その連続体を切り分けるのはリズムで行われます。

人にとって、肉体的にも精神的(神経情報)にもそれが分かる形であるもの、関れるものは、呼吸と言うことになります。

2008年1月19日土曜日

芦分舟‥あしはあしでも足なんですけど4

健康であると言うのは、医者や療術師が言うから健康なのではなく、その人間そのものの創造性の活動そのものと捉えたい。

医者が健康と言うときは、その見立ての中で一定の基準値より正常寄りか、異常寄りかと言うことを観て健康か病気かを決めている。ということは、時代や、身体に体する常識が違う、江戸時代や、それ以前、また諸外国に於いては病気や健康、そのものが違うと言うことでもある。

物事を認識するとき、私達はおなじものを見聞きしていると感じているが、実際は、それぞれ異なるものを同じであると括る事で、はじめて共通した認識をして、良い意味での誤解の上に成り立っている。
フランスの画家の集団とドイツ人の画家の集団が同じ草原で出食わした時、フランス人の自由奔放な描き様をみて、ドイツ人は一つのもチーフを全員で厳密に描こうとしたが、結果出来た画は、一つとしておなじものは無かった、と言う笑い話がある。

見えたものを、一度脳で処理できる状態に分解し、再びそれを、再構成し、今度は、見たものとして表現し直すと言うことをしているのであるが、そこにはその身体的な特長、時代性、意図したものが、無意識的に混入する類の物です。

絶対に変えてはいけないと言われる、聖書のテクストや、イコン画、等にもその時代で理解されたようにしか伝わって行かなかったと言う痕跡が残っています。

正確にそのものが残っていると言うことは有り得ない話で、常にその時点での今からの視点で、受け取っては、変換し、消えて行く、流動的な物であると言うのが、恐らく正しい認識であると言えると思います。
それを逐一処理するのは非常な浪費であるので、共通に認識していると言うプロトタイプを、つまり常識ですが、それを用いることで、浪費はほとんど起こらないと言って良いのではないかと思えてしまう位なのではないだろうか。

我々播磨陰陽師達の瞑想法は、音を聞くことで行われるが、より生の情報を脳に届けているとも考えられる。

2008年1月13日日曜日

芦分舟‥あしはあしでも足なんですけど3

場合によっては、危機感をすら感じることで身体は攻撃性を喚起し、攻撃的な免疫細胞により雑菌を食べて安全を確保します。

そのような揺らぎを持つリズムは、おそらく、外部に反応して喚起されるもので、今それが良いからと言って、今後、あるいはそれ以前に、同様に適切なものとしてあるわけではないと思う。
生体として、リズムを固定してしまうと、とたんに創造性を失ってしまうのではないかと言う気がする。芸術的なものが、根源的に求めまた洗わそうとしているものは、そういう意味では、健康体の一つの基準として観ることが可能である。つまりは、創造的な仕事を出来ると言う事、創造的な精神状態を流動的に維持することが出来る。

健康であると言うのは、医者や療術師が言うから健康なのではなく、その人間そのものの創造性の活動そのものと捉えたい。

桔龍屋記す

2008年1月4日金曜日

芦分舟‥あしはあしでも足なんですけど 2

〜そのため、偏らない、あるいは、心の動かない、軸の立った、等と言う表現になりますが、施術する方の意識のあり方がそのまま成果に繋がると言う事があります。先の按摩手引にもありますが、心の動くときは、施術は遠慮すべし云々‥と言うのがあります。


さて、その偏りと言うのは、何を観て判断するのが一番効率的で、応用が利くのでしょうか?その判断する基準自体を学のが、無数にある療術、医学、の要ではないかと思うのですが、私は、それを今までは、触覚と言うもので判断し、それを視覚化していましたが、より効率的にするために、聴覚化することを鍛えています。
と言いますのも、友人に有能な調律師がいるのですが、元々西洋の音楽と言うものは、自然科学の一部であると言う話を聞きました。また、私は学生のときに、美学、特に認識論的な内容のものを専攻していましたので、そのときやはり絵画も元々は自然科学の一部であると言う、認識がありました。

物の捉え方と、認め方は、人それぞれの『素晴らしさ』のなかで吟味されるものですが、それを、理解できるものとして認識するのは、より根本的なある価値観を必要としているものです。それを、形而上的と言うので良いと思うのですが、そのようなものをどの様に受け入れたかで、価値観を展開する場があります。

話がややこしくなって行きますので、何故聴覚に焦点を絞っているかと言うと、一つは認識がより現物に近いと言うことがあげられます。波動として捉えると言うことです。そして、方向が視覚は前方依存ですが、聴覚は、強弱はある程度生まれますが、全方向性の情報元として捉えられます。
また、聴覚を鍛えるのは、脳を鍛えることにもなると言いますし、聴覚を主体とした瞑想法は集中力が非常に短時間で発動すると言うこともあります。

波動のバランス、つまり音のバランスで、身体特に心の部分に焦点をあてて、自然治癒力を引き出す方法に、音楽療法と言うものがあります。
その研究や捉え方には様々あるとは思いますが、ゆらぎ(1/f)のリズムが癒しを引き起こすと言う研究があります。

リズムと言うものの中で、身体にはどんなリズムがあるでしょうか?脈も一つのリズムですし、月や太陽の運行のによる影響は、身体に現れた、外の世界のリズムの写しです。免疫機能にも対になる二つの表現があります。一つは、交感神経の働きによる物。もう一つは副 交感神経によるものです。
一般的に、リラックスが癒しの要のようなイメージがありますが、実際は、免疫機能が一番良い状態にするには、興奮とリラックスが適度にバランスを取りつつ、状況に合わせて変化する必要があります。1/fの揺らぎで癒しが起こると観測されると言うことは、そのような、バランスが必要になると言うことが導き出されます。単に、休むから身体が治癒するのではないと言うことも分かると思います。
場合によっては、危機感をすら感じることで身体は攻撃性を喚起し、攻撃的な免疫細胞により雑菌を食べて安全を確保します。
桔龍屋記す

2008年1月1日火曜日

今年

さて、なんやかんやしているうちに、年が明けてしまいました

改めて、あけましておめでとうございます

去年は、何やら、年末の大晦日は、変な事件や事故の話ばかりが、聞こえて来ましたが、なんとなく明けても、緊張感が取れません。しばらく祝詞をあげて編み物しながら、聞き耳を建てていましたが、どうもしっくり落ち着きません。

今年は霊符を作って家の護りをちょっと固めておきます。

まあ、そんな固めるゆうても、悪いものがあると言うわけではなくて、折角閃いたデザインを活用しないのは勿体無いので、使うまでのことですが。


桔龍屋 記す