2008年1月30日水曜日

パンフレット

何人かの方からパンフが、一般的ではないとの指摘があり、ん~確かにそうなんですが、どうしたものか。施術受けて方で感想なんかきいて、作り直そうかと思っています。

2008年1月29日火曜日

祝手内〜はふりて セッションご報告




去る1月27日(日)に、兵庫県芦屋市にある、ヒーリングサロン マグノリアにて、無痛身体調整法 祝手内〜はふりての、セッション会がありました。


遠くは名古屋や、奈良県からもお越し頂き、好評のうちに、落ち着いた空気の中で終えることが出来ました。
来て頂いた皆様、ありがとうございました。

足首を持ってまずその重さと、温度、太さ、意識の届き具合をチェックします。そのあと軽く振りながら反応と、揺らぎ方を見て、最初の緩める対象を決めます。

足を、交差させ、股関節と蝶骨、腰椎等、足から腰を経由して、肩、首へと繋がり方のチェックをします。

その後は、緩めながら、逐一反応を見て、その不具合の質を判断しながらバランスを取って行きます。一段落したら頭部の調整をします。支持するポイントを変えながらゆらし、掌で、包み込みながら呼吸を読みながら圧します。頚椎の並び具合を調べながら、登頂から足に通じる様に角度を合わせ、牽引、捻転し、可能な場合は、呼吸に整えます。

芦分舟‥あしはあしでも足なんですけど12

そういう意味では、想いが形になって行くことは、その内容の貴賎に関らず芸術的であるとも言えます。

人間の根本的なあり方には芸術性は欠かせないと言うことが出来るでしょうか。

人と人の関りと言うものを基本に考えると、そのような態度で臨むのがこちらの意図も、相手の意図も損なうこと無く場を作ることが出来るのではないだろうか。
その状態でどの様な方向性に進むかと言うことを、接触を通して行うと言うことになるでしょうか。

そういうわけで、癒しと言われているものも含めて、代替医療の分野は、明らかに現代医学とは、その基本スタンスを異にしていると言うことを確認しておく必要があると思います。
現代医学の基本経典には、ユナーニ医学というイスラムの古典がありますが、その内容はどちらかと言うと東洋医学的な対症法が載っています。歴史の流れの中のある地点で、モノの捉え方が、今私達がしているような視点へとシフトして行ったわけですが、今の時点から、それを検証するのは、今私達が前提としている世界の解釈の仕方の癖を良く意識する必要があるでしょう。とは言え、その癖の中で思考し行動するので、そのような状況があると意識すること自体が、ある視点と他の視点の差を取ることの基本となると思います。

東洋医学の基本技術は、そこにあるものの差を取って行くことであると、理解しています。
特に手技に於いては、触覚で解るもの、大きさや温度、湿りけや形が、左右上下、内外での差を取って、そのバランスを取ることが基本になります。

そのバランスを見立て体系化したものの一つが、経絡であると言えます。ツボや経絡の場所を知っていても、それをどの様に使うかは、それらのバランスの関係性を、体感的に把握する必要性があります。

知識そのものとしては、使えません。

桔龍屋記す

2008年1月28日月曜日

芦分舟‥あしはあしでも足なんですけど11

そういう意味では、私がするような整体は、アーティストに一番受けて頂いたら良いのかも知れません。一般的な筋肉疲労や骨格の変位、エネルギー療法的な対応、アプローチもありますが、きっと芸術的な仕事の一助になるのが一番嬉しいことでもあるでしょう。

芸術と言っても、価値があるかどうかは問題に出来ないので、その人がその人なりの興奮と躍動を感じることが出来たなら、その作品は、その瞬間芸術であって、それが生まれ落ちた後、芸術的であるかどうかはその時々の環境が保持するだけなので活動そのものには優劣はありません。

しかしながら、それが認められる事によって、世界に影響が与えられるのも、芸術の場合は格別に嬉しい事であります。新しい作品が喚起する価値観の変化は、世界を変化させて行きますから、実に、文字通り創造的な作業となるものです。そういう意味では、想いが形になって行くことは、その内容の貴賎に関らず芸術的であるとも言えます。

人間の根本的なあり方には芸術性は欠かせないと言うことが出来るでしょうか。


桔龍屋記す

2008年1月26日土曜日

芦分舟‥あしはあしでも足なんですけど10

呼吸を自分の身体のリズムとして考え、寝ると言うことを、太陽の運行の体内リズムとして関る事が可能でしょう。

野口晴哉氏の言うように身体が好きなものに向かうと、途端に今まで調子の悪かったものが、痛みも不快感も無く、動けるようになることが良く体験されると思いますが、子どもなんかを見ていると、不快感以上に楽しいと、トイレに行くのも忘れているのを良く見かけます。

それは同時に、危機感と言うモノに導かれたときも、火事場のナントヤラで、異常な行動力を発揮します。つまりは、緊張と弛緩、攻撃と養生と言うものは、常に必要なリズムの要素で、それぞれの要素だけを取り出して、これによって治るので、他は病の原因であると言うのは、全くのでたらめであります。

野口晴哉氏の場合は、どうも、腹が出来ていたらどうにでもなる‥と言うのが結論であったようで、それは古来から見られる身体技法にある、丹田の充実と言うことになりますが、その充実を何を持ってするかと言うのが其々の分野の個性、特色と言うことが出来ます。また、その充実の限界線をどの様に設定しているかと言う事で、その世界観が見て取れます。

各々の持つ世界観の中で、何を善さと考えているのか探りながら、身体を操作する訳ですが、そうすると、状況が変化しない、つまり病客にとっては、治らないと言うこと、もしくはすぐ元に戻るような事が起こります。

良く言われるように、その病や不具合を無意識の内に求めている場合がそれで、やさしくされたり、待遇が良かったり、頑張っているような錯覚が嬉しいと言う人は結構居ます。

ただその錯覚をすることで、必要以上に現実を受け入れなくても良い体制が出来ているようなので、それを崩すと精神的に破綻する方向に向かうようです。自ら向かうときは破綻しない様で、回りから追い込まれた形だと、きっと破綻するようです。

どの様に、限界の設定を変更するかと言うのは、どの世界に於いても、創造的な仕事とですが、健康についても同様にそれは、創造的な作業とみなすことが出来ます。

そういう意味では、私がするような整体は、アーティストに一番受けて頂いたら良いのかも知れません。一般的な筋肉疲労や骨格の変位、エネルギー療法的な対応、アプローチもありますが、きっと芸術的な仕事の一助になるのが一番嬉しいことでもあるでしょう。


桔龍屋記す

2008年1月25日金曜日

芦分舟‥あしはあしでも足なんですけど9

引いては、人間をどの様に捉えるかと言うことが要点となります。今の知識で健康と言うことは、それほど確かなものでも、また善いものでもないと言うことでもあります。

常におなじ状態と言うものは無く、それが一定に見えていると言うことは、周囲の変化に対応仕切っていると言うことでもあります。野口整体で言われるように、風邪は病気と言うよりはむしろ、外界の変化に対応するための、身体の適正反応と見ることが出来ます。

と言うことは、風邪に限らず、各種の不具合は、その対処の仕方如何でいか様にもその後の状況を選べると言うことでもあります。それを意識的に観察するか、常識的に観察するかの、対応の差によって、得られる情報の質には雲泥の差がでると言えます。

しかし、難しいのは、その感覚に対する自信と言いますか、その感覚が適正なものか、調べる術は無く、というのも、個々の状況によって、こちらの反応の基準も、常に変化していると言えるからであります。

私、が、どう、感じているか?どうしたいか?
私、が、何を認め、何を拒否するか?

それだけしか、そこには確実のものは無いと思えます。極、閉鎖的な感じに成るかも知れませんが、解るものにだけ解る、もしくは、その感覚もつ限界までしか解らない、と言うことになります。

勢い、と言う詞で良く言われているようですが、身体と心が合致して、それに向かう‥つまりは、楽しいことに、面白いと感じることに、集中しているかどうかの問題であるとも言えます。

その究極の状態は、死ぬか生きるか‥と言う境目で、いうなればその状態は日々起こっている一瞬一瞬の変かでありますが、それを夢とうつつに見立てたのが日本の感覚の中にあるようです。

夢の間は魂があの世に行くと言う考え方がありますが、起きている、うつつ、の間は生き、寝る夢の世界は死後であり、起きてまた生まれると言うサイクルの見立ては、自分の感覚の変化を認識可能なサイクルとして認知する、と言うことなのかも知れません。太陽の運行のサイクルと言えるでしょう。

呼吸を自分の身体のリズムとして考え、寝ると言うことを、太陽の運行の体内リズムとして関る事が可能でしょう。

桔龍屋記す

2008年1月23日水曜日

芦分舟‥あしはあしでも足なんですけど8

何かを意図せずに、行うことに、この療法の要がある‥と言うようなことを、天真療法の創始者、肥田春充氏はおっしゃいましたが、本当は全ての手技療法は、そのようなもので、意図を持つと、かえって十分にその機能は発揮できないようです。


先にも言いましたが、心が動くときには触れないのが肝要であるとは、江戸時代の按摩の手引書の注意書きにある通りですが、裏を返すと、術者の思っている身体や精神、人間像がそのまま影響すると言うことでもあります。

時代性と言うものも、意識するしないに関らず、また、それを受け入れたり、拒否するしないに関らず、反応しているものですから、それも術者と、病客の関係の中で、同時に相互に影響しあっています。

健康に対する知識が病を創り出すと言うことが、往々にして起こっていることです。どうしたら善いか分からないのは身体に、そして、その場を仕切る集合意識的な働きに任せたら良いわけですが、明晰な知識であればある程、その場合身体や、場の本来持つ自浄作用はその知識内に限定されて活動すると言うことが出来るでしょう。
プログラムとかでは、そのプログラムを動かすために、他のそれとは機能的に関りの無いプログラムが依存関係として必要になることがあります。複雑な機能を持つ物であればある程そのような依存関係がありますが、その関係ないプログラムがインストールされないと、結局本体のプログラムはインストールできず、機能しません。

それと同様に、身体をどの様な視点で見立てるかが、その病気のプロセスを消化させ、持っている機能を活性化させるかさせないかのポイントになると考えられます。

引いては、人間をどの様に捉えるかと言うことが要点となります。今の知識で健康と言うことは、それほど確かなものでも、また善いものでもないと言うことでもあります。

桔龍屋記す

2008年1月22日火曜日

芦分舟‥あしはあしでも足なんですけど7

またほとんど、共通で、へその下に位置する丹田に気を集めて行きます。その集めたり、身体にめぐらすルートには様々なパターンが存在しますが、これもほとんど共通に、いわゆる東洋医学の経絡に相当するものの幾つかに沿ってめぐらせて行きます。


ヨガの場合は三本の縦に走った管状のものを想定するようです。チベット密教も、基本は三本の管ですが、それぞれ、分岐して、結構な数になって居たと思います。東洋医学は十四経絡が有名ですが、その他、奇経八脈でしたか、十四の内、督脈と任脈は奇経なので、正経は十二に成ります。

仙道の小周天は、督脈と任脈を使うものですが、そこに気を呼吸にのせて巡らします。

このような行は、背骨に付随するようなイメージで腹と口鼻を背骨で結んだ線を定規のようにして、呼吸をコントロールするようです。実際のところ、どれほど厳密に実行したところで、体験したことの無い感覚は、無理にそれを表現するための制約されたイメージの中で、取りこぼされることになります。

その場合有効な精神状態として、無心‥と言うものがありますが、極度の集中で達成されると思われている、瞑想の最良の状態と言うことも出来るでしょうか。

何かを意図せずに、行うことに、この療法の要がある‥と言うようなことを、天真療法の創始者、肥田春充氏はおっしゃいましたが、本当は全ての手技療法は、そのようなもので、意図を持つと、かえって十分にその機能は発揮できないようです。



桔龍屋 記す

芦分舟‥あしはあしでも足なんですけど6

人にとって、肉体的にも精神的(神経情報)にもそれが分かる形であるもの、関れるものは、呼吸と言うことになります。

呼吸については古今東西色々な表現や手法、行法、解釈入り乱れておりますが、大きく分けて、自然な呼吸をするのと、強制的にリズムをつけるものとに分けれると思います。概ね、鼻から吸って口から吐くのは共通しているのではないでしょうか。

昔話題になった、韓国の武術、借力(しゃくりき)は、覚えている限りでは、呼吸の仕方が、とても面白く、吸って、何秒止めて、何分の一吐いて、何秒止めて、何分の一吐いて‥と、順に難易度をあげて行く様なものでした。

仁神術という、日本発祥の手当療法がありますが、と言っても、日本ではほとんど知られていないし、アメリカばかりで流行ってしまったようですが、その創始者が、初心者に行わせるのも、簡単な丹田呼吸法です。意図的に何か能力を向上させようとする場合は、吸って、止めて、吐くという呼吸方法になるのがほとんどではないでしょうか。神仙道や導引気功、ヨガは、どちらかと言うと、禅の様に静止、もしくは坐禅、アグラ、正座にて行うものが多い様に思います。

一報、中国北派と言われるような拳法や太極拳、日本の古流の武術や合気道等は移動して全身で行うそれとも見えます。坐禅にも歩き回ってするものもありますが、それぞれ向き不向きがあるということは忘れては成らないですが。

また、祝詞や、宗教儀礼の中で行われる発声は、その発声の内に、リズムと意味と響きがあり、正しく行われると、同様の効果があると言えます。

またほとんど、共通で、へその下に位置する丹田に気を集めて行きます。その集めたり、身体にめぐらすルートには様々なパターンが存在しますが、これもほとんど共通に、いわゆる東洋医学の経絡に相当するものの幾つかに沿ってめぐらせて行きます。

桔龍屋 記す

2008年1月20日日曜日

芦分舟‥あしはあしでも足なんですけど5

それを逐一処理するのは非常な浪費であるので、共通に認識していると言うプロトタイプを、つまり常識ですが、それを用いることで、浪費はほとんど起こらないと言って良いのではないかと思えてしまう位なのではないだろうか。

その分、余力を創造的な活動に用いるのが、完全燃焼させるには良いと思われますが、一般にはそういうわけにも行かないようで、また、どの方向に創造的であるかと言うのは各々の癖と言うものがあり、場合によっては、あまりよろしくない方向に創造的である人がでて来る事にも成るが、それは致し方の無いことであります。

どれほど優秀な人ばかり集めても、その中でやはり優劣と、働く人とサボる人がでて来るのは、それこそバランスを取っているわけであります。そういう事も考えますと、定めて組織的であるのは、流動性を必要としていると言うことでもあり、人体にとっては、その低き汚き部分の担当は幾つかありますが、正常に滞りなく機能している場合は、汚れや不要物を排泄する事は必須の事態です。

人の身体も淀み無く流れるのが良いわけですが、只の素通しでは、栄養の摂取も、分配も事欠く訳で、そこに自ずから、消化しては流す、貯めては流す、醸しては流す、というリズムが生まれます。バイオリズムとか言うのでしょうか?自分で分かるのは呼吸ですね。ホメオスタシスとは恒常性と言われますが、生体の内部や外部の環境因子の変化にかかわらず、生体の状態が一定に保たれるという性質、あるいはその状態のこと。生物が生物である要件のひとつであるほか、健康を定義する重要な要素でもある。生体恒常性とも言われる。

流動的な世界にあってそれに意識を持って行かれること無く、何か定まったものがあるように錯覚できる、身体的な機能です。流動的であれ、恒常的であれ、それを認識するのにも、その連続体を切り分けるのはリズムで行われます。

人にとって、肉体的にも精神的(神経情報)にもそれが分かる形であるもの、関れるものは、呼吸と言うことになります。

2008年1月19日土曜日

芦分舟‥あしはあしでも足なんですけど4

健康であると言うのは、医者や療術師が言うから健康なのではなく、その人間そのものの創造性の活動そのものと捉えたい。

医者が健康と言うときは、その見立ての中で一定の基準値より正常寄りか、異常寄りかと言うことを観て健康か病気かを決めている。ということは、時代や、身体に体する常識が違う、江戸時代や、それ以前、また諸外国に於いては病気や健康、そのものが違うと言うことでもある。

物事を認識するとき、私達はおなじものを見聞きしていると感じているが、実際は、それぞれ異なるものを同じであると括る事で、はじめて共通した認識をして、良い意味での誤解の上に成り立っている。
フランスの画家の集団とドイツ人の画家の集団が同じ草原で出食わした時、フランス人の自由奔放な描き様をみて、ドイツ人は一つのもチーフを全員で厳密に描こうとしたが、結果出来た画は、一つとしておなじものは無かった、と言う笑い話がある。

見えたものを、一度脳で処理できる状態に分解し、再びそれを、再構成し、今度は、見たものとして表現し直すと言うことをしているのであるが、そこにはその身体的な特長、時代性、意図したものが、無意識的に混入する類の物です。

絶対に変えてはいけないと言われる、聖書のテクストや、イコン画、等にもその時代で理解されたようにしか伝わって行かなかったと言う痕跡が残っています。

正確にそのものが残っていると言うことは有り得ない話で、常にその時点での今からの視点で、受け取っては、変換し、消えて行く、流動的な物であると言うのが、恐らく正しい認識であると言えると思います。
それを逐一処理するのは非常な浪費であるので、共通に認識していると言うプロトタイプを、つまり常識ですが、それを用いることで、浪費はほとんど起こらないと言って良いのではないかと思えてしまう位なのではないだろうか。

我々播磨陰陽師達の瞑想法は、音を聞くことで行われるが、より生の情報を脳に届けているとも考えられる。

2008年1月13日日曜日

芦分舟‥あしはあしでも足なんですけど3

場合によっては、危機感をすら感じることで身体は攻撃性を喚起し、攻撃的な免疫細胞により雑菌を食べて安全を確保します。

そのような揺らぎを持つリズムは、おそらく、外部に反応して喚起されるもので、今それが良いからと言って、今後、あるいはそれ以前に、同様に適切なものとしてあるわけではないと思う。
生体として、リズムを固定してしまうと、とたんに創造性を失ってしまうのではないかと言う気がする。芸術的なものが、根源的に求めまた洗わそうとしているものは、そういう意味では、健康体の一つの基準として観ることが可能である。つまりは、創造的な仕事を出来ると言う事、創造的な精神状態を流動的に維持することが出来る。

健康であると言うのは、医者や療術師が言うから健康なのではなく、その人間そのものの創造性の活動そのものと捉えたい。

桔龍屋記す

2008年1月4日金曜日

芦分舟‥あしはあしでも足なんですけど 2

〜そのため、偏らない、あるいは、心の動かない、軸の立った、等と言う表現になりますが、施術する方の意識のあり方がそのまま成果に繋がると言う事があります。先の按摩手引にもありますが、心の動くときは、施術は遠慮すべし云々‥と言うのがあります。


さて、その偏りと言うのは、何を観て判断するのが一番効率的で、応用が利くのでしょうか?その判断する基準自体を学のが、無数にある療術、医学、の要ではないかと思うのですが、私は、それを今までは、触覚と言うもので判断し、それを視覚化していましたが、より効率的にするために、聴覚化することを鍛えています。
と言いますのも、友人に有能な調律師がいるのですが、元々西洋の音楽と言うものは、自然科学の一部であると言う話を聞きました。また、私は学生のときに、美学、特に認識論的な内容のものを専攻していましたので、そのときやはり絵画も元々は自然科学の一部であると言う、認識がありました。

物の捉え方と、認め方は、人それぞれの『素晴らしさ』のなかで吟味されるものですが、それを、理解できるものとして認識するのは、より根本的なある価値観を必要としているものです。それを、形而上的と言うので良いと思うのですが、そのようなものをどの様に受け入れたかで、価値観を展開する場があります。

話がややこしくなって行きますので、何故聴覚に焦点を絞っているかと言うと、一つは認識がより現物に近いと言うことがあげられます。波動として捉えると言うことです。そして、方向が視覚は前方依存ですが、聴覚は、強弱はある程度生まれますが、全方向性の情報元として捉えられます。
また、聴覚を鍛えるのは、脳を鍛えることにもなると言いますし、聴覚を主体とした瞑想法は集中力が非常に短時間で発動すると言うこともあります。

波動のバランス、つまり音のバランスで、身体特に心の部分に焦点をあてて、自然治癒力を引き出す方法に、音楽療法と言うものがあります。
その研究や捉え方には様々あるとは思いますが、ゆらぎ(1/f)のリズムが癒しを引き起こすと言う研究があります。

リズムと言うものの中で、身体にはどんなリズムがあるでしょうか?脈も一つのリズムですし、月や太陽の運行のによる影響は、身体に現れた、外の世界のリズムの写しです。免疫機能にも対になる二つの表現があります。一つは、交感神経の働きによる物。もう一つは副 交感神経によるものです。
一般的に、リラックスが癒しの要のようなイメージがありますが、実際は、免疫機能が一番良い状態にするには、興奮とリラックスが適度にバランスを取りつつ、状況に合わせて変化する必要があります。1/fの揺らぎで癒しが起こると観測されると言うことは、そのような、バランスが必要になると言うことが導き出されます。単に、休むから身体が治癒するのではないと言うことも分かると思います。
場合によっては、危機感をすら感じることで身体は攻撃性を喚起し、攻撃的な免疫細胞により雑菌を食べて安全を確保します。
桔龍屋記す

2008年1月1日火曜日

今年

さて、なんやかんやしているうちに、年が明けてしまいました

改めて、あけましておめでとうございます

去年は、何やら、年末の大晦日は、変な事件や事故の話ばかりが、聞こえて来ましたが、なんとなく明けても、緊張感が取れません。しばらく祝詞をあげて編み物しながら、聞き耳を建てていましたが、どうもしっくり落ち着きません。

今年は霊符を作って家の護りをちょっと固めておきます。

まあ、そんな固めるゆうても、悪いものがあると言うわけではなくて、折角閃いたデザインを活用しないのは勿体無いので、使うまでのことですが。


桔龍屋 記す