2008年2月28日木曜日

芦分舟‥あしはあしでも足なんですけど21

陰陽の差が認識できた後は、只それをバランス取れるようにすれば良いだけで、それを何処に基準を持ってバランスさせるかと言うことが大切になります。

実際、陰陽がそれを感じとる人自身に対して正確に読み取れていれば、あとは、どの様な対処も可能です。そのバランスを取ると意識が働けば、そのように術者の身体は働きかけますから、漢方薬の処方であれ、音楽療法であれ、どの様な手段でも、陰陽を見立てた時と同じ手法の流れの中にあるなら、利用可能です。

その意味で、手法は一定ですが、その活用は状況次第で常に変わります。
手法が大事なのではなく、実は、どの様に見立てているかと言うことがやっていることの90%以上です。それをどの様に共有するかと言うことに、残りを使います。病客の感覚と意識の状態に、効果的な間合いで入ってゆく必要がありますが、どうも呼吸を読んでいればその間合いに入るようです。武術的に呼吸を観て相手の間合いに入って行く時と同じではないかと思います。

ということは、最初に掴むときに探るのではなく、その前に、終了しているように見立てを、完了しておく必要があると言うことですね。この、意識の持続感は面白いので、今後常に使ってみます。

桔龍屋記す

2008年2月26日火曜日

芦分舟‥あしはあしでも足なんですけど20

だから、好きな事に置いて起こるストレスは成長へと導きますが、不本意なことをして起こるストレスは停滞以上のものをもたらさないようです。

さて、いままで、色々並べましたが、実際思う以上に、身体には染み着いた思考パターンがあります。そういう状態を理解した上で接する必要があります。実際にどのような手順で、身体にアプローチしてゆくかと言うと、触れた場所から、まず陰陽の差を読んでゆきます。これは針灸などの東洋医学で行われる物と共通しています。皮膚感覚による、左右の大小や、熱さ冷たさ、張り具合、硬さ、湿り気、触れたことに対する反応、等、感じれることの全てをそこで感じます。
そして、そこから延長して身体の中の状態を、探ってゆきます。意識を向けると反応があります。それを音として感じたり視覚的に感じたり、触覚として感じたり様々ですが、私の場合は専ら、色、形で感じる方が多いです。探っているときは音的に感じているようですが。

陰陽の差が認識できた後は、只それをバランス取れるようにすれば良いだけで、それを何処に基準を持ってバランスさせるかと言うことが大切になります。

痛みを取ることに集中すると、折角の生体反応を阻害する事もあり、根本的な解決を先送りすることにもなりかねません。

基本的に必要なのは、重心の取り方で頭部と腰部それぞれの重心に合わせる事です。それが呼吸と揃う必要があります。

実際に整体術をするところは、背骨をどうこうするわけで、手順としてはこの三つが含まれていますが、あまり良く感覚された上で施術はされていないようです。

それを合わせる時に、身体の癖に乗せて、自覚させながら誘導すると、良い結果に結び付くようです。

またこれは私の考えですが、今痛みが取れるより、生活の中で回復して痛みが取れた方が、有用であると思うのです。施術完了時をピークとするのではなく、それから日常に戻ったときに、その癖を利用して経過し痛みが取れると言う、後からピークが来るようにしています。個人差はありますし、同一人物でも、その時々で差はありますが。


桔龍屋記す

2008年2月22日金曜日

芦分舟‥あしはあしでも足なんですけど19

風邪の発熱は、ピークを迎え下降して、一旦平熱より低くなり、調整を完了して平熱に戻ると言う事が野口晴哉氏の観察で言われていますが、大人に意識の変化が観られにくいと言うのは、その低い時に安静にしていなければならないと言う事があり、家庭で無条件に生体反応で生活できる場と言うのは、およそ幼児期にしか求められないからではないかと考えます。平熱に戻ると、動いてしますのでそれがなかなか叶わないようです。

社会生活を行っていると、実際の身体の要求とそぐわない行動を取らざるを得ない場合が殆んどです。
身体に掛ける負荷は、免疫機能に対するもの、例えば傷を化膿させて、新しい組織と入れ換えさせる事や、危険を察知して、身体を臨戦体制にすると言うような、非常に基本的で、必要なストレス以上に、いちいち頭で理解し識別しなければならないような類のストレスが多いようです。結果身体の欲しいストレスと、社会が強要するストレスの二種類以上のストレスを処理しなければならなくなりました。

だから、好きな事に置いて起こるストレスは成長へと導きますが、不本意なことをして起こるストレスは停滞以上のものをもたらさないようです。

桔龍屋記す

2008年2月16日土曜日

芦分舟‥あしはあしでも足なんですけど18

一般には、その調整の作用自体を、病気とかと誤認したり、不安によって変質させて病にしてしまうことがあるように思えます。不安を夢で悪夢に成長させ、現実的に不幸を呼び寄せるのとおなじことでしょう。不安を取り除くか、他の区分けにリンクし、後は自然治癒力を促すことで、区分けの更新は行われると考える事が出来ます。

身体の調子をどの線をもってして、健康と病態に分けるのかと言うことは、その生き方によると私は考えます。一般的には医者、もしくは医療機関等の示す評価に従ってそれを決め、確認し、対処すると言うことになります。

極端な例ではありますが、某療術家のエピソードがあります。長年見ていた女性の定期施術の時、間もなく亡くなると言う事を、側近に漏らし、司法解剖のとき、医者が何と言うか見ものだねぇ‥と言ったいいます。はたして、言った通り、一週間後に亡くなり、司法解剖の時、子宮は老女なのに20代、しかし全身に癌が発症していたそうです。その女性は、医者には決して身体を観せないで、その療術家だけを信頼していたと言いますから、その療術家の世界観の中で生きていたことになります。

だからと言って、全ての人が自分の信じている世界観の中だけで生きて行けるわけではなく、たとえ現代医療を拒否していても、その全て、つまりその診断した病気のあり方から、現象、対処法、治療法、世界観の一切を否定したと言うより、その一部をなんとなく気に入らない、もしくは納得しないと言うことの場合が多いように思います。

病気の概念と対になって健康と言うものがある以上、健康体に付いても再構成する必要があり、とても一人で出来るようなものではないでしょう。また、誰かの考えた健康や病気と言うものに身を任せると言うのも、一人でその概念を構築すると言う事と同じくらい危険で、無謀では無いかと思います。

では、どの様に対処しようかと言うのがそこから出て来ます。

一番簡単なのが、身体の反応力のみを円滑にし、原因と結果には拘らないと言う方法があります。自然治癒力を高めると言うことと方向性は同じであると言えます。先の例では、その某療術家は、結局腹さえ出来ていれば問題無いのだ、と結論したと言いますが、それは、古来より身体の鍛錬法に必ず出て来る丹田が活性であるかどうかと言う問題です。

方向性は同じであると言いましたが、全く同じではないと言うことです。自然治癒力を活性化して治ると言う場合と、同じくらい起こるのが、意識が変化して治ると言う場合があります。と言うか、この場合は、子どもに良く観られますが、熱を出す度に、精神的な対応が変化してゆきます。ですから、この場合は精神的な変化が先か、治癒の結果精神的に変化したのか、どうとも取れますが、自身の経験と実験からでは、精神的な変化は、治癒を導きます。音楽療法などをみるとそれらに付いての考察があるでしょう。

風邪の発熱は、ピークを迎え下降して、一旦平熱より低くなり、調整を完了して平熱に戻ると言う事が野口晴哉氏の観察で言われていますが、大人に意識の変化が観られにくいと言うのは、その低い時に安静にしていなければならないと言う事があり、家庭で無条件に生体反応で生活できる場と言うのは、およそ幼児期にしか求められないからではないかと考えます。平熱に戻ると、動いてしますのでそれがなかなか叶わないようです。

丁度、先日辺りから、寒気がしていまして、一日寝込み、その間に、次の日の計画をたてました。普通に生活しながら発熱を促し、次の日の休日に最低体温に成るであろうと予測して寝ていました。

寒気がしていたので、今まではその寒気には保温と言う対処しかしませんでしたが、今回はその震えを、何か違う情報に書き換え出来ないか、色々試してみました。なにがどう変化したかは、はっきり言葉には出来ませんが、少なからず手応えを感じたので、今後何かに使えるかも知れません。

さて、結果的には、本日土曜日は、一日体温をはかりながら寝ていました。一時、35度6分位に落ちて36度6分位に戻りました。今また、37度ですが(笑)動けるので別に良いです。

桔龍屋記す

2008年2月12日火曜日

芦分舟‥あしはあしでも足なんですけど17

その地平で見るとき、外界があって、身体がそこと関ることで、身体そのものに変化がある‥と言う図式では、呪術も外科的処方も、医薬品も、全く同レベルのものであると言うことを、確認しておく必要があります。

そういう見方をすること自体が、なかなか難しく、一見、現代医学を否定しているような印象を持たれることがありますが、むしろ其々の適用範囲を明確にするための、生活手段であります。
其々の療法は、適用範囲と使い方、信頼の置き方を間違えると、命を落しかねません。術者がその範囲外の事をしようとするとき、問題を起こすことになります。

どんな身体でも、外界の刺激に、その出来得る範囲で反応をしています。出来る範囲、と言うのはつまりはリミッターが付いていると言うことなんですが、それが、人それぞれの持つ常識と言われるところの、根拠の無い共通の見立てであります。

法律が一定の規則であり、変えることが出来ない程堅いものであると言うのを信じている人は居ないと思いますが、それでも、内容こそ違えども、法律的な区分けは、必ず機能していると言うこともまた、無視できない事であります。

身体的な故障は、この意味では、区分けの範囲を越えてしまった事による不具合と言うように例えることが出来るかもしれません。区分けの範囲に戻ることが、自然治癒力の現れと言うことが出来るでしょう。そのとき、発熱や痛み、悪寒や排泄の異常など、調整の作用があると言うことになるでしょうか。

一般には、その調整の作用自体を、病気とかと誤認したり、不安によって変質させて病にしてしまうことがあるように思えます。不安を夢で悪夢に成長させ、現実的に不幸を呼び寄せるのとおなじことでしょう。不安を取り除くか、他の区分けにリンクし、後は自然治癒力を促すことで、区分けの更新は行われると考える事が出来ます。

桔龍屋記す

2008年2月5日火曜日

芦分舟‥あしはあしでも足なんですけど16

痛みを、痛みとしてではなく治癒の作用の一則面として観ると言う事と、そこから来る情報を、現在の身体の歪みや、不具合に、適切に渡すことで、現在の動きをそのまま活かし、変容させることが出来ないだろうか‥と言うのが、祝手内へと至る、着想です。

そのようなプロセスは一般的には、自然治癒力と言われる過程ですが、それに、どう関ってゆくかと言う事になります。
普通それには、身体の機能を正常化する、あるいは活性化する事で、免疫機構を整え、自然治癒力を高めると言う手続きになります。それには、質の良い材料、つまり食糧ですが、それを、十分に消化、つまり身体が使える状態に変質させ、そして、それを免疫機能等のために使い自然治癒力を活性化させると言うことになります。

これは、分子生物学的なアプローチで、現代医学、解剖学的な見立ての延長と考えて差し支えないと思います。

東洋医学では、医食同源と言いますが、食物は、消化され、栄衛となり身体を巡ります。それを巡らせるのは気血です。気は、いわゆる「気」です。血は血。衛は生体反応ー生体現象、栄は滋養作用という区分けが成立するでしょうか。

それでは、手技として、それをどの様に観て行こうかと言うことですが、手技としては、食に相当するものは、対象になる身体以外の環境として見立てた方が良いように思います。どう言うモノを食べていたかと言うより、食べたものにどう反応しているか‥を正確に読み取る必要があると言うことと理解しています。栄養があるものでも、食べ過ぎや、食傷している場合は、吐き出した方が良い時もあります。

具体的には、触覚と視覚、聴覚をリンクさせて使います。触覚で分かるのは、重さや大きさ、湿気、温度です。あと、動き具合の滑らかさ等を知ることが出来ます。
視覚では、色や、形、捻れ具合。
聴覚では、声の玻璃、空間の状態、間合い等を見ます。そして、それらの全てを、一番気に留まる箇所に一極集中させて、その箇所の状態を、全て同時に感覚すると、処理仕切れずに勝手に必要な情報にまとまります。それが、どの状態にあり、どこへ向かい、どの様に変化するのかを、見立ててゆきます。

ここが、一番難しいと言うか、危ういと言うか、そういう部分でしょう。思い込みが入ると、その思い込みを保証するような情報しか組み立てられず、治癒と言う方向には進めないようです。

一般的には、外科的処方、薬品による処方が、病を駆逐する方法論としては正しい様な印象を持ちますが、それは、解剖学的な身体が人間であると確認し承認された環境で言えることで、解剖学的身体を拒否した環境に於いては、極端な場合、全く機能しないことがあり得ます。
そのような環境、例えば、未開地等と区分けされる世界に於いては、呪術的処方の方がより完成度の高い治療をおこない得ることがあります。
そこら辺の事情は、医療人類学と言う分野に尋ねるのが、事例を多く目に出来ると思います。

その地平で見るとき、外界があって、身体がそこと関ることで、身体そのものに変化がある‥と言う図式では、呪術も外科的処方も、医薬品も、全く同レベルのものであると言うことを、確認しておく必要があります。共通の認識も、それ自体が実は幻想であると言うのも、神経に余裕があるなら、改めて確認すると良いでしょう。


桔龍屋記す

2008年2月4日月曜日

芦分舟‥あしはあしでも足なんですけど15

いろいろと認められると、やはり嬉しいものです。

最初に、整体を始めたときは、いわゆる中国整体のスイナ術で、国際整体なんやらの教本とおなじものでした。急激な操作をしない、比較的安全な方法のみによる手技療法でした。しかし簡単な分、頑固な凝りや慢性的な症状には回数を重ねると言うアプローチしか無く、非常に物足りない感がありました。

それと、日常生活で出来上がった癖は、それ自体で必要な状態を経過すれば、解消するのではないかと言う目算があり、丁度、風邪が経過すると、身体が整うのだと言う、野口整体に観られる着想と同じです。

と言うのも、痛みに対する療法は、まかり間違うと、痛みだけ取れたら良いと言う、対症療法の、それもかなり御粗末な方法論に達するのでそれは避けて通るべきモノでした。
痛みがあると言う自覚は、一方で、その症状に反応し、治癒させようと言う働きの表現に他なりませんから、痛みを感じないのは、只の麻痺です。

痛みを、痛みとしてではなく治癒の作用の一則面として観ると言う事と、そこから来る情報を、現在の身体の歪みや、不具合に、適切に渡すことで、現在の動きをそのまま活かし、変容させることが出来ないだろうか‥と言うのが、祝手内へと至る、着想です。


桔龍屋記す

芦分舟‥あしはあしでも足なんですけど14

これは、他者との共通のものではないので、自分が一番、等と思っていると、失敗します。

さて、今日は節分で、本来の新年であります。明けましておめでとうございます。今日から先、はじめてみた夢が、初夢と言うことになります。どうぞ、良い夢を‥良い夢と云いますと、今はあまり言わないのかも知れませんが、一、富士、二、鷹、三、なすびといいますね。諸説ありますが、三大仇討ちの事をいい、滅多に無い事の意味であると説明されると、なるほど、と思います。

『一は「富士」の裾野が舞台となった曽我兄弟の仇討ち、二は忠臣蔵の播州浅野家の家紋(違い鷹の羽)が「鷹」であった。そして、三が伊賀上野の鍵屋の辻で、事を成す「茄子」荒木又右衛門の伊賀越の仇討ちにちなんだともいわれてる。』Web上で調べたものです。一部間違えでしたので訂正しました。結構いい加減ですが、私も間違えていることがあると思うので、まあ、直せるところは自分で直すと言うことで(笑))

これは、師匠が赤穂浪士の子孫であると言うことにも関係しますが、其々の伝承は、その流れの質を伝えていると思いますので、伝承の内容以外のモノが結構重要だったりするのではないだろうか、なんて思ったりします。

さて先日は、優秀と言うか、天才と言うか、気功整体師に私の施術を受けて頂き感想を聞かせてもらいました。真っ当なやり方で良いと思う‥何せ、薄々は感じておりましたが、やはりこの業界でまともに身体を観る事の出来る整体師は少ないとのことです。
きちんと身体を観てますね、と言う事で何やら卒業検定を受けたような気分でした。

施術に関して、予想だにしない感想では
「御見事」
と言うのがありました。いろいろと認められると、やはり嬉しいものです。




桔龍屋記す

2008年2月1日金曜日

芦分舟‥あしはあしでも足なんですけど13

知識と言うのは、頭で理解していると言うことの云いに他なりませんが、身体で理解させると云うのは、一見時間が掛かるように思えますが、火傷をしたとき、気付いたら熱くなったヤカンから手を離していたと言うことは誰しも経験したことであると思います。

その一秒未満でその感知と動作は終了します。身体が認識するには、一秒に満たないじかんでその是非を感覚します。

身体の記憶と言うものは、そのような反応の集積でありますが、それは、意識的に呼吸を介在させながら関ることが出来ます。
武術、特に古流のものは、ゆっくりとゆっくりと動作するものがありますが、それは呼吸と合わせて、動作を記憶させていると言うことです。

さて、何故身体の鍛え方を注目するかと言うと、自分の身体の認識が変わると、その分、他人の身体が解る様になるからです。意識し、其々の部分や箇所の差異を感覚することで、細部に関する情報を、自分の感覚からなる見立てで使うことが出来るようになります。

これは、他者との共通のものではないので、自分が一番、等と思っていると、失敗します。