2008年7月2日水曜日

生命力とその勢い

生命力は、一つのエネルギーとするなら、その舵を取るのは勢い、と言い換える事が出来るだろうか?感情というのを、その方向性と見立てると、よくわかるように思う。良い悪いという事ではなく、その感情というのは、ある価値観を持ち、何かを採り何かを棄てるその中心となっている。一方、生命力というのは、創造性とでも言えばよいのか。性エネルギーとも言い換えても良いだろうか?

野口整体の、野口晴哉氏は、人の体は勢いを持つと、不具合を自ら解消するという見解を持っていたが、まさにその通りであろう。どんなに勧められても、気の乗らないものは受け入れる事はないし、正当で理解可能なものでも、やはり気がのらないと前には進まない。

単純化してしまうと、性エネルギーも、感情の勢いも、余計な幻想を排除して、そのものとして眺めて使えば、ロスなく使えるという気がしてくる。
しかし、実際それが機能するのはすでに出来上がっている概念の中だけであるので、さまざまな幻想を関わる者に引き起こしながら、活動する事になる。あまりに創造的なセットは、誤解と無理解と嫌悪の対象になる。そして、そのような活動は自然と破壊や揺らぎを引き起こすことになる。


生体維持のために起こるそれは、不要な組織を破壊し、必要な働きを、バランスの中に保とうとする。いわゆる発熱、悪寒、痛み、不快感、発汗などの好転現象という事が出来る。

体、というのは、個々人で千差万別であるが、目が二つ、鼻が一つ、というような、器官的なところでいうと、他の生物との差、つまり人類としての『勢い』と『エネルギー』がありうると見る事が出来る。その下に、国、地域、コミュニティ、とか言う感覚的な段階がある。その下にようやく個人の持つ『感情、勢い』と『性、エネルギー』を見る事が出来る。個人のそれらは、比較的狭い範囲で活動しているので、身体的な所での『勢いとエネルギー』には、うまく反りが合わない事のほうが多いようで、病気や不具合を解消したいといっても、身体的には、必要な安全弁的なものであったりする。一旦良くなっても、すぐに悪くなるのはこのような場合であろう。

そこに、なかなか自然と、自己のそれぞれの『勢いとエネルギー』の一致を見ないところに、宗教的な世界は、色々な意味を持たせ、人格の完成という道を提示するわけである。

『勢いとエネルギー』というセットを、どの位相に共鳴させるかという事で、出来る事と、得られる情報が変化するだろう。


桔龍屋記す