2008年11月30日日曜日

11月29日 モニタリングセッション 備忘録

セッションした人の、今回の祝手内経験回数が、小さいものを含めて、4回,3回,初回と違ったことで、施術に対しての心理的な作用、その蓄積、間合いなどの変化を見ることができた。

何をしているのか、被施術者本人の自覚と言うものを確認しながらすることの必要性は今更言うまでもない。その確認の方法も、物理的な感覚を言う事で、こちらの意図や何に対して動作しているとか、双方の共通の認識を得ることが出来る。今回は心理的な状態を確認する事になった。心理的な状態が、極端に表現されていない場合も、観立ての枠を用意することで、身体の反応を見逃さないで、少なくとも状態の変化は別角度で捕捉できた。

そのため、

①何もしない常態の身体、

②手技による振動を与えたときの物理的な身体、

③相手の意識の変化を表現した身体、

④こちらの意識を感知した身体、

⑤感情や意の表現を取り除いたときの身体、

というような区別を、明確に出来たように思う。そしてそれらに複合的に反応、作用しつつある身体それぞれに対するアプローチと、施術の終了までの方向性、流れを意識的に追ってゆくことが出来たように感じれました。日本の昔風の表現で言うなら、魂を掴んで形を変える、などという感じなのだろうか、とも思いました。

知識と言うのは、実際の技術にあまり関係ないように思われることもあるかもしれないが、知識がそのまま技術になっていると言う事もあるように思うこの頃であります。フランス語のsavoirと言う言葉は、知る、と言う意味ですが、知っていることと出来る事は一緒、知っていれば出来るし、出来なければ知らないのと一緒と言うような意味で使われていたと思います。ミッシェル・フーコーの著作の中では、権利、と訳さなければならないものがあり、原書講読のゼミに単位にならないにもかかわらず出席し翻訳したところ、そのような指摘をされ、『意味の違いは埋めようが無いのだから、結局のところ、フランス語はフランス語として受け取ることしか出来ないでしょうに・・・』と思ったことがあります。決まったフレーズを使い、文章を組み立てるのが学術的なのだなあと思っていましたが、社会に出ると、そうしないと生きてゆけないのには驚きました。

紋切り型、というのは実に人がモノを認識するのに必須の構造なのでありますが、基本的には無意識に作用しているようです。意識や感情にもそれぞれいくつかパターンに分かれているのですが、エニアグラムとか、占星術とかはそのパターンの区分けの一例でしょう。

そのパターンを上手く掴んで操作、活用すると、非常に効率よく状態を変化させられると言うわけです。

あるいは、反応があれば、そこには何がしかの処理パターンが存在しているのでこちらのアプローチと選択肢の設定で違うパターンの設定も可能ではないかと思ってます。

桔龍屋識          

2008年11月27日木曜日

揺らぎで一言   まとまったもので書いてみました

揺らぎによる、自然治癒力の活性化は、整体とは一見かけ離れているようにも思えます。音楽療法と言うものがありますが、音楽を演奏したり音楽遊びをするタイプのものと、音楽を聴くことで癒しを引き起こすものがあります。実はこの聴く方に面白い報告があります。モーツァルトの楽曲には、この『揺らぎ(1/f・・・f分の1)』が多く含まれていると言われています。耳から音として受け入れますが、振動は、からだ全体で受け止めています。
周波数の低いものは、腰や尾てい骨に響き、高くなるにつれて、頭部に響きます。250hz~4000hz位まで反応すると言う研究もありました。音楽療法で、骨格の矯正が成された例は少ないですが、報告されていると言います。CDによる演奏と、生のアコースティックギターや、ピアノの響きの違いを体感したら、その振動と言うものが、頭として聴くのではなく、からだとして聴いているということが解ると思います。

金魚運動と言うものがありますが、揺らすことで、脊柱の左右の副脱臼を治すとともに、胃腸の働きを活発にする作用があります。もともと腸は、大食したり減食したり、硬いものを食べたり流動食を取ったりするために、あたかも蛇がカエルをのんだごとくある箇所は膨張し、ある箇所萎縮し、またあるところは過腸結腸といって弾力を失ったゴムのように伸びきっています。こうした腸の太さを揃え、また麻痺している箇所の神経を再び働かせ、伸びすぎた腸は生理的に正常な長さにするのが、この金魚運動の目的です。

したがってこの方法を頻繁に実行していれば便秘に苦しむことがなく、下痢や腹痛もなく、腸捻転、腸閉塞、虫垂炎(盲腸炎)に罹ることがありません。例え何かの拍子でこうした病気に罹ったとしても、きわめて軽傷ですみ、金魚運動で治ります。脊柱が左右に副脱臼しているということは、左右の筋肉にも異常がある証拠でありまして、
たとえていうなら胸椎5、6、7番が右へ湾曲しているということは、脊柱の右側の筋肉が硬直しているということです。したがって左側の筋肉は弛緩していることになります。金魚運動はこうした筋肉の硬直、弛緩も生理的に治癒します。

心臓も一定のリズムを打ちます。潮の干満も一定のリズムを表現します。実は、免疫機能も、交感神経、副交感神経の二つの変化によるリズムによって適切に働きます。昼と夜の変化と同調しているとも言います。興奮・刺激と静寂・弛緩の変化のリズムです。陰陽と例えて話をしますと、人の身体も、右左、表裏、内外の、陰陽の相関関係を見て取ることが出来ます。自律神経の活動の波は、ホルモンバランスや、筋肉の緊張など、色々なところに、現れます。

一方身体には、陰陽のバランスの要があります。腰と腹の中ほどに重心があります。また、正面から見た真ん中と、横から見た真ん中に、つまり身体の中心に軸があります。首の辺りに上半身の重心があります。腹は実の重心。首は虚の重心です。そしてそれは、呼吸によってつながっています。そして、呼吸はココロとつながって
います。
私が調整するのは、その重心と軸です。あなたの持つ身体のリズムを感じながらより良い状態になるよう、アプローチしてゆきます。
桔龍屋 識     

2008年11月26日水曜日

癒しと言うこと

ネットである人の日記をみて、想いを新たにしました。

『癒しと言う言葉がうさんくさい』ということは、少し冷静になれば直ぐにわかることです。誰かが、何かが癒してくれると言うことはありません。体が、自ら癒えて行くものです。

それを、どのような目線でサポートするかと言う事が、本来の医療の立場であると思います。

薬が、医者が治すのではありません。療法が、治すのではないです。体、そのものが活力を持って動くなら、治る物は直ぐ快方に向かうし、時間や条件が必要なものは、その条件に合致すれば治ります。

命の持つ『葛藤』、極端な言い方になりますが、生きてゆこうと言う生命力と、その生命力の更新とも言うべき細胞の死滅。それが、体感できるのが、病、と言う事が出来るでしょうか。

私は、日ごろから、病を利用して、その現象の意味を全うさせるモノは何だろうかと、考えています。

チベット仏教医学などでは、意識のあり方が病を生むとしていますが、意識のあり方の何処をどのように操作すればよいのか、頭で解っても使えないので、手の内の感覚として再構成出来ないものかと探求しています。

2008年11月21日金曜日

体の使い方

体の使い方などと題をつけましたが、今までのことを総合すると、結局は意識の使い方に行き着きます。そこで意識をどのようにコントロールするかと言うことになるわけですが、言い換えれば、自分の心をどのように扱うかと言うことになるでしょう。

ココロを解体して、アプローチするための何がしかを導き出そうとすると、そこには、欲と情の二つが出てくるのではないだろうか?情も、欲も、身体や社会を構成するための一定の、設定された反射・・・と見ることが出来る。より良い方法、手続きがあるなら、更新可能なものと『見立て』る事で、その動きを把握することは可能になると言える。

合気道や柔術系の関節技を、単に痛さの面だけで捉えると、筋肉的、骨格的な危険のシグナルとして受け取ることになる。

一方、今ある場の中での、情報の流れとして受け取ると、場の軸を変更することで、痛みと言う情報が、自分の体と、そこに生まれる反応から来る、感情、またその感情を方向付ける欲のそれぞれに分解されて、再統合しようと、あらたに情報収集し始めることがわかる。

それが行われるときに積極的に関わるなら、また面白い変化を導くことが出来るだろう。

続く

桔龍屋識

2008年11月12日水曜日

病の相

ずいぶんと間が空きました。その間に、色々な交流の中で、使っている感覚を整理できたように思います。人と言うのは、その居る環境によって、もっている能力やセンスを変化させたり、あるいは表現を限定した利しているという事を、確認したように思います。

場の意識とでもいうとわかりやすいのかもしれません。他人事のように扱えるし。スタンスを変えることで、それは変わってゆくし、同じ事をずっと言っているのにもかかわらず、意味を違えてとり、ようやくそれが通じるようになると、状況がまったく違うものとなっている。面倒な事や、感情的な事では特にありがちなのではないかと思います。

勝手な解釈というのは、つまりは、物事をすでに知っているパターンに置き換えて認識しないと、理解できないということが、物事の受け取り方の構造だからでしょうか?、状況に対するその場の参加者の認識が、いくつか現れて、それぞれの差と、実際の出来事の差が丁度良いなじみを持つまで、続きます。

一個人の中にも、そのような思い込みと、実際との差異が色々な感情や欲求となって現れているようです。時として病と現れ、時として、揉め事として現れ。どこに、どのように調整するか決めてしまえばそのように体は反応します。それが起きないのは、どの価値観で選択するか、明らかになっていないからです。

そのように捉えながら、身体のほうを調整すると、状況も程よく変化するのではないかと、検証するために、今度モニターを募って、祝手内を行います。

今後、毎月二回くらい、夕方から、夜にかけての時間帯に、行います。大阪は中津、『ヒーリングスペース  ココロ http://www.healing-cocoro.com/about.htm』に於いて開催します。

桔龍屋識