2009年4月16日木曜日

夢という観立て

『夢』と言う言葉で意識するものは、寝ている間に経験している、ある光景・・・であろう。

しかし、一つの別の世界、と言い換えるなら、それを、死後の世界、常世の国、または深層意識、集合無意識・・・などなど、いろいろな捉え方が含まれているともいえるだろう。

一方で、『ゆめ』という言葉で、何処をどう切り取って、捉えたのか、と言う問題もあるだろう。

本来の夢の意味と、私たちが当然のものとして感じているものには、恐らく相当の開きがあるのであろうから、それを問うこともまた、面白いことであろう。

『夢はなんですか?』と問われれば、色々答があることでしょうが、『夢とは、なんですか?』と問われ、簡潔に答えうる人はどれだけいるだろうか。

夢と言うものを、ひとつの『見立て』の道具として捉えてみるのも、世界が広がるのではないだろうかと、思ったりしました。

桔龍屋識                  

2009年1月24日土曜日

私の目線

新年が明けて、もう20日も過ぎてしまいました。何時のころから正月の独特の空気を感じなくなったのだろうと、ふと思うことがあります。

子供のころは、冬休みがあり、それも北海道での小中高は充分な期間が当てられていましたから、日常の変化をよく観察する暇があっただけなのかもしれないですね。社会人になり、就職したての頃は、商社勤めと言う事もあって、何かとご挨拶があり『正月気分』を味わえていました。

コンビニ関係の仕事に移ってからは、休みが無いのが普通なので、かなりそのような感覚は薄れていたように思います。その頃までは、結構酒も飲んでいたので、今思うと酒を飲むのは、付き合いのうちであるのですね。

手に職をつけ始めると、感覚を研ぎ澄ませることに、集中したせいでしょうか、対人関係からの環境把握が希薄になり、もっぱら自分との語らいが意識のあり方の中心に来ていたように思います。この時自分に偏り過ぎず、突き抜けないと、何かが駄目になると言うのはわかりました。自分に偏りすぎると、周囲が崩れ、周囲に迎合すると、自分の重心が崩れます。

一つ上の視点が、自然に現れるまで、じっくりそのギリギリの混沌に居る事しばし。必要なものは用意されている、其処に道は続いていると言うことになるようです。

桔龍屋識        

2008年12月26日金曜日

身体の観立て

身体を、骨格として考えたり、筋肉として考えてたり、色々な方法がありますが、体液として捉えるという方法があります。まだよく理解していませんが、チベット医学ではそのように捉えています。また、日本でも。、仁神術というのは、体液およびガス流動体と言う捉え方をして人の身体の働きを読みます。

気と言う見方もあるのでしょうが、それは、ともすると言葉の違いであって、観ている物は同じかもしれません。

それを、どの言葉を用い、感じているものをどのように加工し、そしてどう表現するか・・・人間の活動と言うものは、やはり本質的に『芸術』であると言えるでしょう。それを支える、その人の持つ『美学』と言う事になるでしょうか。

何を美しいと感じ、何を醜いと感じるかは、人それぞれでありますが、それが世の中に受け入れられるか、拒否されるか、其処に焦点を当ててい自分の生きていることを確認するか・・・あるいは、受け入れられようが、拒否されようが、そのものの命として燃え続けるか・・・私は、後者を採っていると思っています。

そして、自分が、そのものとしてあり続けることに意味を感じています。

其処から、世界を眺めています。

桔龍屋識       

2008年12月10日水曜日

芦分舟・・・あしはあしでも足なんですけど27

先の続きですが、新しいものを表現する事は、26で言ったようなものになると思います。一方、『共有する』事で、それは何になるのでしょう?観察すると、どうもそれは、一般的に言うところの『現実』になると言えそうです。

表現したことが通じない場合、その表現は破棄されて、使える表現だけが、型の様に残ってゆきます。コモンセンスと言ってもいいかもしれないですが、常識、あるいは当然の事といえるでしょう。

疑問をさしはさむ余地が無い、と言う事を、表現する際には使わない場合、何かにつけて誤解を受けます。常識的に考える人たちにとって、型を外れること、それ自体が、非常識と言うことになるでしょう。どのような集団が形成されても、その中にはその集団に必要なパターンが生まれます。そのパターン、構造自体は変わらない様で、詐欺師の集団の中にも、愛情と信頼、憎しみ、忠誠心と裏切りがあるといえるでしょう。

今までの膨大な時間の経過の中で受け継がれてきたものと、共有することで、型になってゆくのでしょうか?

まったく新しい概念と言うのは、他人に理解されないので、無いに等しいものです。それぞれの個が、何かに感応して、産み出す所のものが、一定の影響力を持つことで、初めて新しい概念は理解されるようです。

百匹目のサルと言う話は有名ですが、そのようにして出来上がったものが、伝統的なモノの流れの中には在るのでしょう。

ばか者にしか出来ないこと、と言うものがあります。

2008年12月6日土曜日

芦分舟・・・あしはあしでも足なんですけど26

常々思っていることですが、直接ある特定の人・物を知っていると言うことと、その人の書いた物や、モノの映像で知っていると言うことの違いは、何処にあるのだろうかと言う事。実際の脳内の処理はさほど差は無いはずである。感情の動きも、知識としての処理も、その受け取った人のベースに依るからである。情報としての質は、両者には違いは無い。

とすると、何処に違いがあるのか。知識による受け取りは、その概念や知識の範囲でしか展開しないので、その活用は、内面的な影響で常に誤謬を含んでいると言う不安定感がぬぐえない。

一方、直接時間と空間を共有したものとして受け取りは、概念の展開上、知識的な要素以外のモノから入る。この場合、感覚器官の精度の問題が、常にある。『先生』と呼ばれる人に習うと、その先生の持つ概念以上のものは体感できない。

簡単にいうと、意識、知識として入ったものは、その表現・意識の質は同等に出来るものの、使えない、あるいは誤解の元に、在らざるを得ない。

時間空間的な要素、身体として入ったものは、体験としては同質のもを持つが、使えない、あるいは自分のものではないと言う、事になる。

内面からくる要素と、外から来る要素を、どのようにマッチングさせるかと言う事は中々難しいもので、常に心をフラットにして、感覚を開いて、思い込みをチェックする必要がある。

『私は○○○さんと友達である』と言うだけで、何か特別な世界にいるのだという感覚を持つ人が、多いようである。また、見なければ信じないとか言う感覚も、感覚器官の精度の問題を度外視した、かなり粗い判断基準である。

確かに、それらは、一つの世界を共有しているがために起こる事なのであるから、間違いではないが、時間空間の捉え方としては、かなり勿体無い気もする。その共通の世界の、『外』にあるモノを捉えるに、意識・心という要素を使うのだろう。意識の範囲は常に誤謬を含む。いわゆる『失敗』はつき物であるが、時間空間のフィルターを通して、認識されるものに関しては、他者との共有が可能で、現実となる。

そのフィルターとして簡単に使えるのが、体であると言う認識が成り立つ。創造的身体活動と言うのはそういうものであろう。

                              桔龍屋識

2008年12月2日火曜日

お知らせ

寒さが一段と厳しさを増してきました。師走、如何お過ごしでしょうか。

さて、12月29日月曜日、大阪市中津にあるヒーリングスペース・ココロにて、揺らぎ整体・祝手内のセ
ッションを行います。朝10時から夜20時まで、一時間枠で区切って行います。


一時間  7000円
45分   5000円
お試し30分
     3000円
の、3コースご用意しました。(通常30分5000円、60分7000円の2コース)

年の瀬の疲れをとり、新しい一年をお迎え下さい。

ご希望の方は、メールにて、お問い合わせ願います。


桔龍屋 黒崎 識

2008年11月30日日曜日

11月29日 モニタリングセッション 備忘録

セッションした人の、今回の祝手内経験回数が、小さいものを含めて、4回,3回,初回と違ったことで、施術に対しての心理的な作用、その蓄積、間合いなどの変化を見ることができた。

何をしているのか、被施術者本人の自覚と言うものを確認しながらすることの必要性は今更言うまでもない。その確認の方法も、物理的な感覚を言う事で、こちらの意図や何に対して動作しているとか、双方の共通の認識を得ることが出来る。今回は心理的な状態を確認する事になった。心理的な状態が、極端に表現されていない場合も、観立ての枠を用意することで、身体の反応を見逃さないで、少なくとも状態の変化は別角度で捕捉できた。

そのため、

①何もしない常態の身体、

②手技による振動を与えたときの物理的な身体、

③相手の意識の変化を表現した身体、

④こちらの意識を感知した身体、

⑤感情や意の表現を取り除いたときの身体、

というような区別を、明確に出来たように思う。そしてそれらに複合的に反応、作用しつつある身体それぞれに対するアプローチと、施術の終了までの方向性、流れを意識的に追ってゆくことが出来たように感じれました。日本の昔風の表現で言うなら、魂を掴んで形を変える、などという感じなのだろうか、とも思いました。

知識と言うのは、実際の技術にあまり関係ないように思われることもあるかもしれないが、知識がそのまま技術になっていると言う事もあるように思うこの頃であります。フランス語のsavoirと言う言葉は、知る、と言う意味ですが、知っていることと出来る事は一緒、知っていれば出来るし、出来なければ知らないのと一緒と言うような意味で使われていたと思います。ミッシェル・フーコーの著作の中では、権利、と訳さなければならないものがあり、原書講読のゼミに単位にならないにもかかわらず出席し翻訳したところ、そのような指摘をされ、『意味の違いは埋めようが無いのだから、結局のところ、フランス語はフランス語として受け取ることしか出来ないでしょうに・・・』と思ったことがあります。決まったフレーズを使い、文章を組み立てるのが学術的なのだなあと思っていましたが、社会に出ると、そうしないと生きてゆけないのには驚きました。

紋切り型、というのは実に人がモノを認識するのに必須の構造なのでありますが、基本的には無意識に作用しているようです。意識や感情にもそれぞれいくつかパターンに分かれているのですが、エニアグラムとか、占星術とかはそのパターンの区分けの一例でしょう。

そのパターンを上手く掴んで操作、活用すると、非常に効率よく状態を変化させられると言うわけです。

あるいは、反応があれば、そこには何がしかの処理パターンが存在しているのでこちらのアプローチと選択肢の設定で違うパターンの設定も可能ではないかと思ってます。

桔龍屋識          

2008年11月27日木曜日

揺らぎで一言   まとまったもので書いてみました

揺らぎによる、自然治癒力の活性化は、整体とは一見かけ離れているようにも思えます。音楽療法と言うものがありますが、音楽を演奏したり音楽遊びをするタイプのものと、音楽を聴くことで癒しを引き起こすものがあります。実はこの聴く方に面白い報告があります。モーツァルトの楽曲には、この『揺らぎ(1/f・・・f分の1)』が多く含まれていると言われています。耳から音として受け入れますが、振動は、からだ全体で受け止めています。
周波数の低いものは、腰や尾てい骨に響き、高くなるにつれて、頭部に響きます。250hz~4000hz位まで反応すると言う研究もありました。音楽療法で、骨格の矯正が成された例は少ないですが、報告されていると言います。CDによる演奏と、生のアコースティックギターや、ピアノの響きの違いを体感したら、その振動と言うものが、頭として聴くのではなく、からだとして聴いているということが解ると思います。

金魚運動と言うものがありますが、揺らすことで、脊柱の左右の副脱臼を治すとともに、胃腸の働きを活発にする作用があります。もともと腸は、大食したり減食したり、硬いものを食べたり流動食を取ったりするために、あたかも蛇がカエルをのんだごとくある箇所は膨張し、ある箇所萎縮し、またあるところは過腸結腸といって弾力を失ったゴムのように伸びきっています。こうした腸の太さを揃え、また麻痺している箇所の神経を再び働かせ、伸びすぎた腸は生理的に正常な長さにするのが、この金魚運動の目的です。

したがってこの方法を頻繁に実行していれば便秘に苦しむことがなく、下痢や腹痛もなく、腸捻転、腸閉塞、虫垂炎(盲腸炎)に罹ることがありません。例え何かの拍子でこうした病気に罹ったとしても、きわめて軽傷ですみ、金魚運動で治ります。脊柱が左右に副脱臼しているということは、左右の筋肉にも異常がある証拠でありまして、
たとえていうなら胸椎5、6、7番が右へ湾曲しているということは、脊柱の右側の筋肉が硬直しているということです。したがって左側の筋肉は弛緩していることになります。金魚運動はこうした筋肉の硬直、弛緩も生理的に治癒します。

心臓も一定のリズムを打ちます。潮の干満も一定のリズムを表現します。実は、免疫機能も、交感神経、副交感神経の二つの変化によるリズムによって適切に働きます。昼と夜の変化と同調しているとも言います。興奮・刺激と静寂・弛緩の変化のリズムです。陰陽と例えて話をしますと、人の身体も、右左、表裏、内外の、陰陽の相関関係を見て取ることが出来ます。自律神経の活動の波は、ホルモンバランスや、筋肉の緊張など、色々なところに、現れます。

一方身体には、陰陽のバランスの要があります。腰と腹の中ほどに重心があります。また、正面から見た真ん中と、横から見た真ん中に、つまり身体の中心に軸があります。首の辺りに上半身の重心があります。腹は実の重心。首は虚の重心です。そしてそれは、呼吸によってつながっています。そして、呼吸はココロとつながって
います。
私が調整するのは、その重心と軸です。あなたの持つ身体のリズムを感じながらより良い状態になるよう、アプローチしてゆきます。
桔龍屋 識     

2008年11月26日水曜日

癒しと言うこと

ネットである人の日記をみて、想いを新たにしました。

『癒しと言う言葉がうさんくさい』ということは、少し冷静になれば直ぐにわかることです。誰かが、何かが癒してくれると言うことはありません。体が、自ら癒えて行くものです。

それを、どのような目線でサポートするかと言う事が、本来の医療の立場であると思います。

薬が、医者が治すのではありません。療法が、治すのではないです。体、そのものが活力を持って動くなら、治る物は直ぐ快方に向かうし、時間や条件が必要なものは、その条件に合致すれば治ります。

命の持つ『葛藤』、極端な言い方になりますが、生きてゆこうと言う生命力と、その生命力の更新とも言うべき細胞の死滅。それが、体感できるのが、病、と言う事が出来るでしょうか。

私は、日ごろから、病を利用して、その現象の意味を全うさせるモノは何だろうかと、考えています。

チベット仏教医学などでは、意識のあり方が病を生むとしていますが、意識のあり方の何処をどのように操作すればよいのか、頭で解っても使えないので、手の内の感覚として再構成出来ないものかと探求しています。

2008年11月21日金曜日

体の使い方

体の使い方などと題をつけましたが、今までのことを総合すると、結局は意識の使い方に行き着きます。そこで意識をどのようにコントロールするかと言うことになるわけですが、言い換えれば、自分の心をどのように扱うかと言うことになるでしょう。

ココロを解体して、アプローチするための何がしかを導き出そうとすると、そこには、欲と情の二つが出てくるのではないだろうか?情も、欲も、身体や社会を構成するための一定の、設定された反射・・・と見ることが出来る。より良い方法、手続きがあるなら、更新可能なものと『見立て』る事で、その動きを把握することは可能になると言える。

合気道や柔術系の関節技を、単に痛さの面だけで捉えると、筋肉的、骨格的な危険のシグナルとして受け取ることになる。

一方、今ある場の中での、情報の流れとして受け取ると、場の軸を変更することで、痛みと言う情報が、自分の体と、そこに生まれる反応から来る、感情、またその感情を方向付ける欲のそれぞれに分解されて、再統合しようと、あらたに情報収集し始めることがわかる。

それが行われるときに積極的に関わるなら、また面白い変化を導くことが出来るだろう。

続く

桔龍屋識

2008年11月12日水曜日

病の相

ずいぶんと間が空きました。その間に、色々な交流の中で、使っている感覚を整理できたように思います。人と言うのは、その居る環境によって、もっている能力やセンスを変化させたり、あるいは表現を限定した利しているという事を、確認したように思います。

場の意識とでもいうとわかりやすいのかもしれません。他人事のように扱えるし。スタンスを変えることで、それは変わってゆくし、同じ事をずっと言っているのにもかかわらず、意味を違えてとり、ようやくそれが通じるようになると、状況がまったく違うものとなっている。面倒な事や、感情的な事では特にありがちなのではないかと思います。

勝手な解釈というのは、つまりは、物事をすでに知っているパターンに置き換えて認識しないと、理解できないということが、物事の受け取り方の構造だからでしょうか?、状況に対するその場の参加者の認識が、いくつか現れて、それぞれの差と、実際の出来事の差が丁度良いなじみを持つまで、続きます。

一個人の中にも、そのような思い込みと、実際との差異が色々な感情や欲求となって現れているようです。時として病と現れ、時として、揉め事として現れ。どこに、どのように調整するか決めてしまえばそのように体は反応します。それが起きないのは、どの価値観で選択するか、明らかになっていないからです。

そのように捉えながら、身体のほうを調整すると、状況も程よく変化するのではないかと、検証するために、今度モニターを募って、祝手内を行います。

今後、毎月二回くらい、夕方から、夜にかけての時間帯に、行います。大阪は中津、『ヒーリングスペース  ココロ http://www.healing-cocoro.com/about.htm』に於いて開催します。

桔龍屋識

2008年8月22日金曜日

日々の変化

意識するものを変えると、対応が変わってくる。それは、徐々にではなく、即座に変わるようである。初めてせ整体術をしたころは、なかなか骨自体を意識する事が出来なく、ましてその位置の矯正と言うのは、論外と言う感じである。
カイロプラクティックの解剖実験では、筋肉をとっても、筋をはずしても、曲がった背骨は動かず、最終的に、骨を取り巻いている骨膜か何かを取り去ると、勝手に骨は元の位置に戻る事がわった。それを受けて、カイロ系の手技療法や、日本や各地にある整体術的なものは、瞬間圧を加えて矯正するのが主流である。それが危険であるのは、例を待たずに判る事であるが、そのような手技療法とは、違う角度で身体に向かうと、どのようなものの見方があるだろうか?
西武運動療法(?)のような、名前であったと思うが、そこは寝台に乗り、ベットの角度を変え、臍に軽く空気圧を与えるだけで、身体のバランスを整えていた。骨格の矯正と言う点だけでいうと、音楽療法で、骨格が矯正されたと言う事例(もっとも、それだけが原因とは言えず、何かの要因が、時間経過を経て発したともいえる)もあるし、実際私も、足を持って振っているだけで、胃の後ろ辺りの背骨の変位を矯正した事もある。直接触ることなく、その位置を調整する事は、身体を一つの袋状の塊として捉え、表面だけを意識し、そこに情報はすべて現れていると考えながらすることで、比較的容易に骨格は矯正される。

実際のところ、日常的に肉体から骨が露出するという事はありえなく、解剖学的な『常識』を共有しているから、骨はこのようにしてある、と思っているだけで、実際のところ、わからない。開けば確かにそれはあるのだから事実あるのだともいえるが、開いた瞬間、そのように見えているだけで、表面化するまでは、どうなっているかは実際問題としてわからない。私たちは何者においても、その表面しか知らないのであって、中身はどうなっていても、実のところは、憶測も出来ないのである。

表面を丁寧に探るだけで、その中の状態は、共通認識としてではなく、『私の見たもの』としてたち現れてくる。

                          桔龍屋識

2008年8月19日火曜日

この頃の変化

ふとした切欠で癖のある療術家と交流が始まっています。ふたを開けると、実は似たもの同士のようで、つまりはわたしも、かなりの偏屈。自分の中の感覚を信じて、良いもの悪いものを判断しつつ、長い間生きましたが、衝突と言うより、理解できない、理解されないと言うものばかりだったと思います。

さて、彼との交流で、私の中での感覚と、それを養う手段の確認と、表現する場が、広がっているように思います。肥田式強健術というのは、結構マニアックなもののようですが、それを研究し成果を出すと言うのは、殆ど例がないと言う事です。かの強健術は、肥田春充翁の残した道であるので、他の者は通る事ができない、と言う意見さえあります。

そう考えると、すべては、その人だけの道でもあるわけで、参考にする事は、残されたものと、それに向かう姿勢でしょう。それを自分の感覚にマッチングさせたときに、私の中に、肥田翁の意図したものが現れると思います。

前の土曜日に、友人のセッションルームを借りて、祝手内のセッションを行いました。そのとき、以前セッションされた方に、『以前と同じ肌理の細かい調整と、それに加えて、自分自身の気(血液)の流れるのを感じた』と感想いただきました。この方自体が、結構敏感な方なので、普通の人とは感想自体が違うのですが、その分、こちらの施術のときの、意識の使い方が、どう反映されているか判り、為になります。

今回は、呼吸と血流、身体の中での流動性について感じる事があり、それを反映させていました。今後それを使って、同じような手応えとか、反応を確認できれば、さらに自己の研鑽も進められると考えています。
今回のセッションに来ていただいた皆様、ありがとうございました。

                                桔龍屋識

2008年8月5日火曜日

療術の方法

最近は、真面目と言うか、冗談がきついと言うか、意識の高い療術家と交流があり、にわかに深まっています。どうも、性格や、用いている感覚は同じものの様ですが、結果できあがった世界は違うものでした。

私が、このような身体と意識の係わり合いの世界に入り込んだのは、色々要因があったのでしょうが、その最大のものの一つは『すべては私の中に用意されている』と言う予測と、それを如何様に引き出し、封印を解いて、活用する限界はどこにあるのだろうか?というものです。知識を溜め込む事によってでも、経験を蓄積する事によってでもなく、経験の質を変えることによって、本来持っているものを引き出そうと言う目論見です。
その中で、合氣系の武術に遊び、東洋医学に触発され、日本の古陰陽道をかじり、肥田式強健術を再び注目しています。10年以上前に、何気無く買った、個性豊かな著者たちの本を開けば、妙になれる感覚があります。理解するとかしないとか、と言う事ではなく、よく、肌がなじむと言えばよいでしょうか。今まで、色々な人に教えてもらった事を整理しつつ、、私の感覚も今一度整理し、純化し、強化しておこう。

そうしないと、せっかくツワモノどもにまみえる機会が来ても、存分に楽しめない。
とにかく、一筋縄ではいかない療術家が集まりそうです。鍛えさせてもらえます。感謝。

                                         桔龍屋識

2008年7月2日水曜日

生命力とその勢い

生命力は、一つのエネルギーとするなら、その舵を取るのは勢い、と言い換える事が出来るだろうか?感情というのを、その方向性と見立てると、よくわかるように思う。良い悪いという事ではなく、その感情というのは、ある価値観を持ち、何かを採り何かを棄てるその中心となっている。一方、生命力というのは、創造性とでも言えばよいのか。性エネルギーとも言い換えても良いだろうか?

野口整体の、野口晴哉氏は、人の体は勢いを持つと、不具合を自ら解消するという見解を持っていたが、まさにその通りであろう。どんなに勧められても、気の乗らないものは受け入れる事はないし、正当で理解可能なものでも、やはり気がのらないと前には進まない。

単純化してしまうと、性エネルギーも、感情の勢いも、余計な幻想を排除して、そのものとして眺めて使えば、ロスなく使えるという気がしてくる。
しかし、実際それが機能するのはすでに出来上がっている概念の中だけであるので、さまざまな幻想を関わる者に引き起こしながら、活動する事になる。あまりに創造的なセットは、誤解と無理解と嫌悪の対象になる。そして、そのような活動は自然と破壊や揺らぎを引き起こすことになる。


生体維持のために起こるそれは、不要な組織を破壊し、必要な働きを、バランスの中に保とうとする。いわゆる発熱、悪寒、痛み、不快感、発汗などの好転現象という事が出来る。

体、というのは、個々人で千差万別であるが、目が二つ、鼻が一つ、というような、器官的なところでいうと、他の生物との差、つまり人類としての『勢い』と『エネルギー』がありうると見る事が出来る。その下に、国、地域、コミュニティ、とか言う感覚的な段階がある。その下にようやく個人の持つ『感情、勢い』と『性、エネルギー』を見る事が出来る。個人のそれらは、比較的狭い範囲で活動しているので、身体的な所での『勢いとエネルギー』には、うまく反りが合わない事のほうが多いようで、病気や不具合を解消したいといっても、身体的には、必要な安全弁的なものであったりする。一旦良くなっても、すぐに悪くなるのはこのような場合であろう。

そこに、なかなか自然と、自己のそれぞれの『勢いとエネルギー』の一致を見ないところに、宗教的な世界は、色々な意味を持たせ、人格の完成という道を提示するわけである。

『勢いとエネルギー』というセットを、どの位相に共鳴させるかという事で、出来る事と、得られる情報が変化するだろう。


桔龍屋記す

2008年6月2日月曜日

肥田式強圧微動術

しばらくぶりです。祝手内というのは、実際はどういうことをしているのか、うまい説明はないものかと考えていましたが、戦前の偉人、肥田春充翁によって示されていました、『強圧微動術』という方法がありました。
体の軸や重心を揃えるのに、参考としたのは肥田式強健術の中にある丹田にある実の重心と、首にある虚の重心でした。

普通の整体術では、そこに効果的に調整してゆくのはなかなかでしたが、施術中にふと思い立ってしてみると、思うように反応があり、その時から今の方法を使い始めました。
そのとき施術した人も、もう何年も友達として付き合っていますが、施術直後は殆ど感想といっても『なんとなく軽い…かな』でしたが、四日間にわたって、日々体が軽くなっていったと、毎日報告をいただき、その効果と方向性を確認したものです・

2008年4月10日木曜日

芦分舟…あしはあしでも足なんですけど25

人に教えると、よく理解できるといいますが、私のしているやり方を人に教えるという機会に恵まれるというか、やりたいという奇特な青年がいまして、事ある毎にやり様を伝えています。もっとも、私自身が、色々なやり方を開発しつつ、整理しつつ行っているので、もしかしたら毎回言っている事が違っているかも知れないと思いつつしています。

外から見ると、やっている事は単純なのですが、いざやるとなると、思うようには行かないと言う事です。
私が、病客となって、足を預けてわかったことですが、ただ持たれると言うのは、意外に緊張すると言う事です。

力を抜いて、足を預けてくださいといっても、私の動きに合わせて足を動かしてくれる人が結構いますが、うまく振ってゆくと、そのうち勝手に力が抜けて、足を預けてくれるようになります。強引にやるよりは、病客が、自分の体について、段階的に、何かしらの非日常的な状態を受け入れるようになってくれた方が、効果的でしかも、変化の深さが感覚的にわかります。

そして、教えて思った事は、私の場合は、ニュアンスや、意味の違う、いくつかの見立てを同時に展開して、それを見ながら、反応をチェックし次のアプローチを決めているので、一つ一つの項目は単純なのですが、活用は、どうもかなり複雑にされているようです。

それをする事で、病客の持つ世界観や自分自身に対する見立てを損なうことなく、施術を加えて、状態の改善に、一定量、与する事ができるようです。


桔龍屋記す

2008年3月26日水曜日

芦分舟・・・あしはあしでも足なんですけど24

やはり普段の生活の癖の中に、不具合の変化のためのキーを埋めておかないといけないと、改めて感じました。

この頃特に強く思うのは、こちらの考えている状態が、実にダイレクトに相手に届くのだなあ…ということで、想っている事しか起きないのだと言う感じです。想定外のことがあると、充分に影響を保持でkなかったりします。

意識、概念、を如何に扱うかということに、色々な物の見方が必要になる今日この頃です。


                                        桔龍屋記す

2008年3月15日土曜日

芦分舟‥あしはあしでも足なんですけど23

そのような体制で起こる緊張の緩和も、自ずと質の違うものになり、身体と言うものの本来持つバランスには見合わない状態にその基準を作り上げているのではないか、と、考えることが出来ます。ですから、痛みや不具合を有効に利用しようと言う発想はその辺りから来ます。

先日施術させて頂いた方は、腰左半分の複雑骨折で歩けなくなる予定が、脅威の自然治癒力で回復し歩けるようになった人です。それでも、五年前から、一番きつい鎮痛剤を一日三錠、服用しなければならないような痛みが残っていると言うことでした。
色々整体とか行かれたようですが、痛みが取れず、取れても話しているうちに、また痛みがでて来ると言うことばかりのようでした。

他の用件で私に興味を持って頂いたようで、その事のついでに、施術を受けてみようと言うことでした。

結果的に痛みはそのとき取れ、メールで様子を問い合わせたところ、次の日の昼間では何ともなく、くしゃみか咳を切っ掛けに、痛みがでるようだったので、用心して薬を服用したと聞きました。
痛みはあるものの、その痛みは、激痛だった以前よりだいぶ軽減したと言うことで、喜んでらっしゃいました。

さて、そのときの施術は、恐らく事故のときの状態を身体が深く記憶しているために、なかなかその処理を終えないのではないかと言うことで、色々話しました。

施術後歩く姿をみて、そこに取りこぼしていた日常生活の動きがあり、無痛状態はなかなか続きにくいなと思いましたが、やはり普段の生活の癖の中に、不具合の変化のためのキーを埋めておかないといけないと、改めて感じました。首の骨と腰から仙骨の領域は相似的に捉えることが出来着るので、首周りのストレッチを御願して、一回目のセッションは終了しました。

桔龍屋記す

2008年3月5日水曜日

芦分舟‥あしはあしでも足なんですけど22

手法が大事なのではなく、実は、どの様に見立てているかと言うことがやっていることの90%以上です。それをどの様に共有するかと言うことに、残りを使います。病客の感覚と意識の状態に、効果的な間合いで入ってゆく必要がありますが、どうも呼吸を読んでいればその間合いに入るようです。武術的に呼吸を観て相手の間合いに入って行く時と同じではないかと思います。

見立てが正確でも、病客のイメージと合っていないと効果自体があまり長続きしないように思います。特に私の場合は、相手の持っている癖そのものに、アプローチしますので、こちらに反応しているモノより更に深い部分の状況を探って行きます。

物事と言うものは、こちらのしたことにしか反応を示さないので、そのフェイクに引っかからない様に気を付けることが必要になります。

その意味で、施術自体が不快や痛みを伴うか、それとも、心地よさや、気持良さを伴うかは、その施術自体の性質を表す場合があります。痛みを伴う場合は、病客の身体を臨戦体制に持って行くことが、その免疫機能の活性化を促しますので、その方面の不具合には利きます。

一方、リラックスや快感を伴う場合は、身体を休息モードにしたときの免疫機能を活性化しますので、その方面の不具合に有効です。

現代人は、身の危険に晒されることなく過ごしているような錯覚の上に、生活を構築しているので、その仮想の中で予想され対処される危険にしか敏感には反応しませんから、食糧が手に入らないとか、他の動物に襲われるとか、毒物によって中毒するとかと言う、人間本来遭遇する生命的な危機に対しての反応をかなり歪んだ形で体現しているように思います。

そのような体制で起こる緊張の緩和も、自ずと質の違うものになり、身体と言うものの本来持つバランスには見合わない状態にその基準を作り上げているのではないか、と、考えることが出来ます。ですから、痛みや不具合を有効に利用しようと言う発想はその辺りから来ます。


桔龍屋記す