2008年8月5日火曜日

療術の方法

最近は、真面目と言うか、冗談がきついと言うか、意識の高い療術家と交流があり、にわかに深まっています。どうも、性格や、用いている感覚は同じものの様ですが、結果できあがった世界は違うものでした。

私が、このような身体と意識の係わり合いの世界に入り込んだのは、色々要因があったのでしょうが、その最大のものの一つは『すべては私の中に用意されている』と言う予測と、それを如何様に引き出し、封印を解いて、活用する限界はどこにあるのだろうか?というものです。知識を溜め込む事によってでも、経験を蓄積する事によってでもなく、経験の質を変えることによって、本来持っているものを引き出そうと言う目論見です。
その中で、合氣系の武術に遊び、東洋医学に触発され、日本の古陰陽道をかじり、肥田式強健術を再び注目しています。10年以上前に、何気無く買った、個性豊かな著者たちの本を開けば、妙になれる感覚があります。理解するとかしないとか、と言う事ではなく、よく、肌がなじむと言えばよいでしょうか。今まで、色々な人に教えてもらった事を整理しつつ、、私の感覚も今一度整理し、純化し、強化しておこう。

そうしないと、せっかくツワモノどもにまみえる機会が来ても、存分に楽しめない。
とにかく、一筋縄ではいかない療術家が集まりそうです。鍛えさせてもらえます。感謝。

                                         桔龍屋識

2008年7月2日水曜日

生命力とその勢い

生命力は、一つのエネルギーとするなら、その舵を取るのは勢い、と言い換える事が出来るだろうか?感情というのを、その方向性と見立てると、よくわかるように思う。良い悪いという事ではなく、その感情というのは、ある価値観を持ち、何かを採り何かを棄てるその中心となっている。一方、生命力というのは、創造性とでも言えばよいのか。性エネルギーとも言い換えても良いだろうか?

野口整体の、野口晴哉氏は、人の体は勢いを持つと、不具合を自ら解消するという見解を持っていたが、まさにその通りであろう。どんなに勧められても、気の乗らないものは受け入れる事はないし、正当で理解可能なものでも、やはり気がのらないと前には進まない。

単純化してしまうと、性エネルギーも、感情の勢いも、余計な幻想を排除して、そのものとして眺めて使えば、ロスなく使えるという気がしてくる。
しかし、実際それが機能するのはすでに出来上がっている概念の中だけであるので、さまざまな幻想を関わる者に引き起こしながら、活動する事になる。あまりに創造的なセットは、誤解と無理解と嫌悪の対象になる。そして、そのような活動は自然と破壊や揺らぎを引き起こすことになる。


生体維持のために起こるそれは、不要な組織を破壊し、必要な働きを、バランスの中に保とうとする。いわゆる発熱、悪寒、痛み、不快感、発汗などの好転現象という事が出来る。

体、というのは、個々人で千差万別であるが、目が二つ、鼻が一つ、というような、器官的なところでいうと、他の生物との差、つまり人類としての『勢い』と『エネルギー』がありうると見る事が出来る。その下に、国、地域、コミュニティ、とか言う感覚的な段階がある。その下にようやく個人の持つ『感情、勢い』と『性、エネルギー』を見る事が出来る。個人のそれらは、比較的狭い範囲で活動しているので、身体的な所での『勢いとエネルギー』には、うまく反りが合わない事のほうが多いようで、病気や不具合を解消したいといっても、身体的には、必要な安全弁的なものであったりする。一旦良くなっても、すぐに悪くなるのはこのような場合であろう。

そこに、なかなか自然と、自己のそれぞれの『勢いとエネルギー』の一致を見ないところに、宗教的な世界は、色々な意味を持たせ、人格の完成という道を提示するわけである。

『勢いとエネルギー』というセットを、どの位相に共鳴させるかという事で、出来る事と、得られる情報が変化するだろう。


桔龍屋記す

2008年6月2日月曜日

肥田式強圧微動術

しばらくぶりです。祝手内というのは、実際はどういうことをしているのか、うまい説明はないものかと考えていましたが、戦前の偉人、肥田春充翁によって示されていました、『強圧微動術』という方法がありました。
体の軸や重心を揃えるのに、参考としたのは肥田式強健術の中にある丹田にある実の重心と、首にある虚の重心でした。

普通の整体術では、そこに効果的に調整してゆくのはなかなかでしたが、施術中にふと思い立ってしてみると、思うように反応があり、その時から今の方法を使い始めました。
そのとき施術した人も、もう何年も友達として付き合っていますが、施術直後は殆ど感想といっても『なんとなく軽い…かな』でしたが、四日間にわたって、日々体が軽くなっていったと、毎日報告をいただき、その効果と方向性を確認したものです・

2008年4月10日木曜日

芦分舟…あしはあしでも足なんですけど25

人に教えると、よく理解できるといいますが、私のしているやり方を人に教えるという機会に恵まれるというか、やりたいという奇特な青年がいまして、事ある毎にやり様を伝えています。もっとも、私自身が、色々なやり方を開発しつつ、整理しつつ行っているので、もしかしたら毎回言っている事が違っているかも知れないと思いつつしています。

外から見ると、やっている事は単純なのですが、いざやるとなると、思うようには行かないと言う事です。
私が、病客となって、足を預けてわかったことですが、ただ持たれると言うのは、意外に緊張すると言う事です。

力を抜いて、足を預けてくださいといっても、私の動きに合わせて足を動かしてくれる人が結構いますが、うまく振ってゆくと、そのうち勝手に力が抜けて、足を預けてくれるようになります。強引にやるよりは、病客が、自分の体について、段階的に、何かしらの非日常的な状態を受け入れるようになってくれた方が、効果的でしかも、変化の深さが感覚的にわかります。

そして、教えて思った事は、私の場合は、ニュアンスや、意味の違う、いくつかの見立てを同時に展開して、それを見ながら、反応をチェックし次のアプローチを決めているので、一つ一つの項目は単純なのですが、活用は、どうもかなり複雑にされているようです。

それをする事で、病客の持つ世界観や自分自身に対する見立てを損なうことなく、施術を加えて、状態の改善に、一定量、与する事ができるようです。


桔龍屋記す

2008年3月26日水曜日

芦分舟・・・あしはあしでも足なんですけど24

やはり普段の生活の癖の中に、不具合の変化のためのキーを埋めておかないといけないと、改めて感じました。

この頃特に強く思うのは、こちらの考えている状態が、実にダイレクトに相手に届くのだなあ…ということで、想っている事しか起きないのだと言う感じです。想定外のことがあると、充分に影響を保持でkなかったりします。

意識、概念、を如何に扱うかということに、色々な物の見方が必要になる今日この頃です。


                                        桔龍屋記す

2008年3月15日土曜日

芦分舟‥あしはあしでも足なんですけど23

そのような体制で起こる緊張の緩和も、自ずと質の違うものになり、身体と言うものの本来持つバランスには見合わない状態にその基準を作り上げているのではないか、と、考えることが出来ます。ですから、痛みや不具合を有効に利用しようと言う発想はその辺りから来ます。

先日施術させて頂いた方は、腰左半分の複雑骨折で歩けなくなる予定が、脅威の自然治癒力で回復し歩けるようになった人です。それでも、五年前から、一番きつい鎮痛剤を一日三錠、服用しなければならないような痛みが残っていると言うことでした。
色々整体とか行かれたようですが、痛みが取れず、取れても話しているうちに、また痛みがでて来ると言うことばかりのようでした。

他の用件で私に興味を持って頂いたようで、その事のついでに、施術を受けてみようと言うことでした。

結果的に痛みはそのとき取れ、メールで様子を問い合わせたところ、次の日の昼間では何ともなく、くしゃみか咳を切っ掛けに、痛みがでるようだったので、用心して薬を服用したと聞きました。
痛みはあるものの、その痛みは、激痛だった以前よりだいぶ軽減したと言うことで、喜んでらっしゃいました。

さて、そのときの施術は、恐らく事故のときの状態を身体が深く記憶しているために、なかなかその処理を終えないのではないかと言うことで、色々話しました。

施術後歩く姿をみて、そこに取りこぼしていた日常生活の動きがあり、無痛状態はなかなか続きにくいなと思いましたが、やはり普段の生活の癖の中に、不具合の変化のためのキーを埋めておかないといけないと、改めて感じました。首の骨と腰から仙骨の領域は相似的に捉えることが出来着るので、首周りのストレッチを御願して、一回目のセッションは終了しました。

桔龍屋記す

2008年3月5日水曜日

芦分舟‥あしはあしでも足なんですけど22

手法が大事なのではなく、実は、どの様に見立てているかと言うことがやっていることの90%以上です。それをどの様に共有するかと言うことに、残りを使います。病客の感覚と意識の状態に、効果的な間合いで入ってゆく必要がありますが、どうも呼吸を読んでいればその間合いに入るようです。武術的に呼吸を観て相手の間合いに入って行く時と同じではないかと思います。

見立てが正確でも、病客のイメージと合っていないと効果自体があまり長続きしないように思います。特に私の場合は、相手の持っている癖そのものに、アプローチしますので、こちらに反応しているモノより更に深い部分の状況を探って行きます。

物事と言うものは、こちらのしたことにしか反応を示さないので、そのフェイクに引っかからない様に気を付けることが必要になります。

その意味で、施術自体が不快や痛みを伴うか、それとも、心地よさや、気持良さを伴うかは、その施術自体の性質を表す場合があります。痛みを伴う場合は、病客の身体を臨戦体制に持って行くことが、その免疫機能の活性化を促しますので、その方面の不具合には利きます。

一方、リラックスや快感を伴う場合は、身体を休息モードにしたときの免疫機能を活性化しますので、その方面の不具合に有効です。

現代人は、身の危険に晒されることなく過ごしているような錯覚の上に、生活を構築しているので、その仮想の中で予想され対処される危険にしか敏感には反応しませんから、食糧が手に入らないとか、他の動物に襲われるとか、毒物によって中毒するとかと言う、人間本来遭遇する生命的な危機に対しての反応をかなり歪んだ形で体現しているように思います。

そのような体制で起こる緊張の緩和も、自ずと質の違うものになり、身体と言うものの本来持つバランスには見合わない状態にその基準を作り上げているのではないか、と、考えることが出来ます。ですから、痛みや不具合を有効に利用しようと言う発想はその辺りから来ます。


桔龍屋記す