2008年3月5日水曜日

芦分舟‥あしはあしでも足なんですけど22

手法が大事なのではなく、実は、どの様に見立てているかと言うことがやっていることの90%以上です。それをどの様に共有するかと言うことに、残りを使います。病客の感覚と意識の状態に、効果的な間合いで入ってゆく必要がありますが、どうも呼吸を読んでいればその間合いに入るようです。武術的に呼吸を観て相手の間合いに入って行く時と同じではないかと思います。

見立てが正確でも、病客のイメージと合っていないと効果自体があまり長続きしないように思います。特に私の場合は、相手の持っている癖そのものに、アプローチしますので、こちらに反応しているモノより更に深い部分の状況を探って行きます。

物事と言うものは、こちらのしたことにしか反応を示さないので、そのフェイクに引っかからない様に気を付けることが必要になります。

その意味で、施術自体が不快や痛みを伴うか、それとも、心地よさや、気持良さを伴うかは、その施術自体の性質を表す場合があります。痛みを伴う場合は、病客の身体を臨戦体制に持って行くことが、その免疫機能の活性化を促しますので、その方面の不具合には利きます。

一方、リラックスや快感を伴う場合は、身体を休息モードにしたときの免疫機能を活性化しますので、その方面の不具合に有効です。

現代人は、身の危険に晒されることなく過ごしているような錯覚の上に、生活を構築しているので、その仮想の中で予想され対処される危険にしか敏感には反応しませんから、食糧が手に入らないとか、他の動物に襲われるとか、毒物によって中毒するとかと言う、人間本来遭遇する生命的な危機に対しての反応をかなり歪んだ形で体現しているように思います。

そのような体制で起こる緊張の緩和も、自ずと質の違うものになり、身体と言うものの本来持つバランスには見合わない状態にその基準を作り上げているのではないか、と、考えることが出来ます。ですから、痛みや不具合を有効に利用しようと言う発想はその辺りから来ます。


桔龍屋記す

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