2009年4月16日木曜日

夢という観立て

『夢』と言う言葉で意識するものは、寝ている間に経験している、ある光景・・・であろう。

しかし、一つの別の世界、と言い換えるなら、それを、死後の世界、常世の国、または深層意識、集合無意識・・・などなど、いろいろな捉え方が含まれているともいえるだろう。

一方で、『ゆめ』という言葉で、何処をどう切り取って、捉えたのか、と言う問題もあるだろう。

本来の夢の意味と、私たちが当然のものとして感じているものには、恐らく相当の開きがあるのであろうから、それを問うこともまた、面白いことであろう。

『夢はなんですか?』と問われれば、色々答があることでしょうが、『夢とは、なんですか?』と問われ、簡潔に答えうる人はどれだけいるだろうか。

夢と言うものを、ひとつの『見立て』の道具として捉えてみるのも、世界が広がるのではないだろうかと、思ったりしました。

桔龍屋識                  

2009年1月24日土曜日

私の目線

新年が明けて、もう20日も過ぎてしまいました。何時のころから正月の独特の空気を感じなくなったのだろうと、ふと思うことがあります。

子供のころは、冬休みがあり、それも北海道での小中高は充分な期間が当てられていましたから、日常の変化をよく観察する暇があっただけなのかもしれないですね。社会人になり、就職したての頃は、商社勤めと言う事もあって、何かとご挨拶があり『正月気分』を味わえていました。

コンビニ関係の仕事に移ってからは、休みが無いのが普通なので、かなりそのような感覚は薄れていたように思います。その頃までは、結構酒も飲んでいたので、今思うと酒を飲むのは、付き合いのうちであるのですね。

手に職をつけ始めると、感覚を研ぎ澄ませることに、集中したせいでしょうか、対人関係からの環境把握が希薄になり、もっぱら自分との語らいが意識のあり方の中心に来ていたように思います。この時自分に偏り過ぎず、突き抜けないと、何かが駄目になると言うのはわかりました。自分に偏りすぎると、周囲が崩れ、周囲に迎合すると、自分の重心が崩れます。

一つ上の視点が、自然に現れるまで、じっくりそのギリギリの混沌に居る事しばし。必要なものは用意されている、其処に道は続いていると言うことになるようです。

桔龍屋識        

2008年12月26日金曜日

身体の観立て

身体を、骨格として考えたり、筋肉として考えてたり、色々な方法がありますが、体液として捉えるという方法があります。まだよく理解していませんが、チベット医学ではそのように捉えています。また、日本でも。、仁神術というのは、体液およびガス流動体と言う捉え方をして人の身体の働きを読みます。

気と言う見方もあるのでしょうが、それは、ともすると言葉の違いであって、観ている物は同じかもしれません。

それを、どの言葉を用い、感じているものをどのように加工し、そしてどう表現するか・・・人間の活動と言うものは、やはり本質的に『芸術』であると言えるでしょう。それを支える、その人の持つ『美学』と言う事になるでしょうか。

何を美しいと感じ、何を醜いと感じるかは、人それぞれでありますが、それが世の中に受け入れられるか、拒否されるか、其処に焦点を当ててい自分の生きていることを確認するか・・・あるいは、受け入れられようが、拒否されようが、そのものの命として燃え続けるか・・・私は、後者を採っていると思っています。

そして、自分が、そのものとしてあり続けることに意味を感じています。

其処から、世界を眺めています。

桔龍屋識       

2008年12月10日水曜日

芦分舟・・・あしはあしでも足なんですけど27

先の続きですが、新しいものを表現する事は、26で言ったようなものになると思います。一方、『共有する』事で、それは何になるのでしょう?観察すると、どうもそれは、一般的に言うところの『現実』になると言えそうです。

表現したことが通じない場合、その表現は破棄されて、使える表現だけが、型の様に残ってゆきます。コモンセンスと言ってもいいかもしれないですが、常識、あるいは当然の事といえるでしょう。

疑問をさしはさむ余地が無い、と言う事を、表現する際には使わない場合、何かにつけて誤解を受けます。常識的に考える人たちにとって、型を外れること、それ自体が、非常識と言うことになるでしょう。どのような集団が形成されても、その中にはその集団に必要なパターンが生まれます。そのパターン、構造自体は変わらない様で、詐欺師の集団の中にも、愛情と信頼、憎しみ、忠誠心と裏切りがあるといえるでしょう。

今までの膨大な時間の経過の中で受け継がれてきたものと、共有することで、型になってゆくのでしょうか?

まったく新しい概念と言うのは、他人に理解されないので、無いに等しいものです。それぞれの個が、何かに感応して、産み出す所のものが、一定の影響力を持つことで、初めて新しい概念は理解されるようです。

百匹目のサルと言う話は有名ですが、そのようにして出来上がったものが、伝統的なモノの流れの中には在るのでしょう。

ばか者にしか出来ないこと、と言うものがあります。

2008年12月6日土曜日

芦分舟・・・あしはあしでも足なんですけど26

常々思っていることですが、直接ある特定の人・物を知っていると言うことと、その人の書いた物や、モノの映像で知っていると言うことの違いは、何処にあるのだろうかと言う事。実際の脳内の処理はさほど差は無いはずである。感情の動きも、知識としての処理も、その受け取った人のベースに依るからである。情報としての質は、両者には違いは無い。

とすると、何処に違いがあるのか。知識による受け取りは、その概念や知識の範囲でしか展開しないので、その活用は、内面的な影響で常に誤謬を含んでいると言う不安定感がぬぐえない。

一方、直接時間と空間を共有したものとして受け取りは、概念の展開上、知識的な要素以外のモノから入る。この場合、感覚器官の精度の問題が、常にある。『先生』と呼ばれる人に習うと、その先生の持つ概念以上のものは体感できない。

簡単にいうと、意識、知識として入ったものは、その表現・意識の質は同等に出来るものの、使えない、あるいは誤解の元に、在らざるを得ない。

時間空間的な要素、身体として入ったものは、体験としては同質のもを持つが、使えない、あるいは自分のものではないと言う、事になる。

内面からくる要素と、外から来る要素を、どのようにマッチングさせるかと言う事は中々難しいもので、常に心をフラットにして、感覚を開いて、思い込みをチェックする必要がある。

『私は○○○さんと友達である』と言うだけで、何か特別な世界にいるのだという感覚を持つ人が、多いようである。また、見なければ信じないとか言う感覚も、感覚器官の精度の問題を度外視した、かなり粗い判断基準である。

確かに、それらは、一つの世界を共有しているがために起こる事なのであるから、間違いではないが、時間空間の捉え方としては、かなり勿体無い気もする。その共通の世界の、『外』にあるモノを捉えるに、意識・心という要素を使うのだろう。意識の範囲は常に誤謬を含む。いわゆる『失敗』はつき物であるが、時間空間のフィルターを通して、認識されるものに関しては、他者との共有が可能で、現実となる。

そのフィルターとして簡単に使えるのが、体であると言う認識が成り立つ。創造的身体活動と言うのはそういうものであろう。

                              桔龍屋識

2008年12月2日火曜日

お知らせ

寒さが一段と厳しさを増してきました。師走、如何お過ごしでしょうか。

さて、12月29日月曜日、大阪市中津にあるヒーリングスペース・ココロにて、揺らぎ整体・祝手内のセ
ッションを行います。朝10時から夜20時まで、一時間枠で区切って行います。


一時間  7000円
45分   5000円
お試し30分
     3000円
の、3コースご用意しました。(通常30分5000円、60分7000円の2コース)

年の瀬の疲れをとり、新しい一年をお迎え下さい。

ご希望の方は、メールにて、お問い合わせ願います。


桔龍屋 黒崎 識

2008年11月30日日曜日

11月29日 モニタリングセッション 備忘録

セッションした人の、今回の祝手内経験回数が、小さいものを含めて、4回,3回,初回と違ったことで、施術に対しての心理的な作用、その蓄積、間合いなどの変化を見ることができた。

何をしているのか、被施術者本人の自覚と言うものを確認しながらすることの必要性は今更言うまでもない。その確認の方法も、物理的な感覚を言う事で、こちらの意図や何に対して動作しているとか、双方の共通の認識を得ることが出来る。今回は心理的な状態を確認する事になった。心理的な状態が、極端に表現されていない場合も、観立ての枠を用意することで、身体の反応を見逃さないで、少なくとも状態の変化は別角度で捕捉できた。

そのため、

①何もしない常態の身体、

②手技による振動を与えたときの物理的な身体、

③相手の意識の変化を表現した身体、

④こちらの意識を感知した身体、

⑤感情や意の表現を取り除いたときの身体、

というような区別を、明確に出来たように思う。そしてそれらに複合的に反応、作用しつつある身体それぞれに対するアプローチと、施術の終了までの方向性、流れを意識的に追ってゆくことが出来たように感じれました。日本の昔風の表現で言うなら、魂を掴んで形を変える、などという感じなのだろうか、とも思いました。

知識と言うのは、実際の技術にあまり関係ないように思われることもあるかもしれないが、知識がそのまま技術になっていると言う事もあるように思うこの頃であります。フランス語のsavoirと言う言葉は、知る、と言う意味ですが、知っていることと出来る事は一緒、知っていれば出来るし、出来なければ知らないのと一緒と言うような意味で使われていたと思います。ミッシェル・フーコーの著作の中では、権利、と訳さなければならないものがあり、原書講読のゼミに単位にならないにもかかわらず出席し翻訳したところ、そのような指摘をされ、『意味の違いは埋めようが無いのだから、結局のところ、フランス語はフランス語として受け取ることしか出来ないでしょうに・・・』と思ったことがあります。決まったフレーズを使い、文章を組み立てるのが学術的なのだなあと思っていましたが、社会に出ると、そうしないと生きてゆけないのには驚きました。

紋切り型、というのは実に人がモノを認識するのに必須の構造なのでありますが、基本的には無意識に作用しているようです。意識や感情にもそれぞれいくつかパターンに分かれているのですが、エニアグラムとか、占星術とかはそのパターンの区分けの一例でしょう。

そのパターンを上手く掴んで操作、活用すると、非常に効率よく状態を変化させられると言うわけです。

あるいは、反応があれば、そこには何がしかの処理パターンが存在しているのでこちらのアプローチと選択肢の設定で違うパターンの設定も可能ではないかと思ってます。

桔龍屋識