2008年12月26日金曜日

身体の観立て

身体を、骨格として考えたり、筋肉として考えてたり、色々な方法がありますが、体液として捉えるという方法があります。まだよく理解していませんが、チベット医学ではそのように捉えています。また、日本でも。、仁神術というのは、体液およびガス流動体と言う捉え方をして人の身体の働きを読みます。

気と言う見方もあるのでしょうが、それは、ともすると言葉の違いであって、観ている物は同じかもしれません。

それを、どの言葉を用い、感じているものをどのように加工し、そしてどう表現するか・・・人間の活動と言うものは、やはり本質的に『芸術』であると言えるでしょう。それを支える、その人の持つ『美学』と言う事になるでしょうか。

何を美しいと感じ、何を醜いと感じるかは、人それぞれでありますが、それが世の中に受け入れられるか、拒否されるか、其処に焦点を当ててい自分の生きていることを確認するか・・・あるいは、受け入れられようが、拒否されようが、そのものの命として燃え続けるか・・・私は、後者を採っていると思っています。

そして、自分が、そのものとしてあり続けることに意味を感じています。

其処から、世界を眺めています。

桔龍屋識       

2008年12月10日水曜日

芦分舟・・・あしはあしでも足なんですけど27

先の続きですが、新しいものを表現する事は、26で言ったようなものになると思います。一方、『共有する』事で、それは何になるのでしょう?観察すると、どうもそれは、一般的に言うところの『現実』になると言えそうです。

表現したことが通じない場合、その表現は破棄されて、使える表現だけが、型の様に残ってゆきます。コモンセンスと言ってもいいかもしれないですが、常識、あるいは当然の事といえるでしょう。

疑問をさしはさむ余地が無い、と言う事を、表現する際には使わない場合、何かにつけて誤解を受けます。常識的に考える人たちにとって、型を外れること、それ自体が、非常識と言うことになるでしょう。どのような集団が形成されても、その中にはその集団に必要なパターンが生まれます。そのパターン、構造自体は変わらない様で、詐欺師の集団の中にも、愛情と信頼、憎しみ、忠誠心と裏切りがあるといえるでしょう。

今までの膨大な時間の経過の中で受け継がれてきたものと、共有することで、型になってゆくのでしょうか?

まったく新しい概念と言うのは、他人に理解されないので、無いに等しいものです。それぞれの個が、何かに感応して、産み出す所のものが、一定の影響力を持つことで、初めて新しい概念は理解されるようです。

百匹目のサルと言う話は有名ですが、そのようにして出来上がったものが、伝統的なモノの流れの中には在るのでしょう。

ばか者にしか出来ないこと、と言うものがあります。

2008年12月6日土曜日

芦分舟・・・あしはあしでも足なんですけど26

常々思っていることですが、直接ある特定の人・物を知っていると言うことと、その人の書いた物や、モノの映像で知っていると言うことの違いは、何処にあるのだろうかと言う事。実際の脳内の処理はさほど差は無いはずである。感情の動きも、知識としての処理も、その受け取った人のベースに依るからである。情報としての質は、両者には違いは無い。

とすると、何処に違いがあるのか。知識による受け取りは、その概念や知識の範囲でしか展開しないので、その活用は、内面的な影響で常に誤謬を含んでいると言う不安定感がぬぐえない。

一方、直接時間と空間を共有したものとして受け取りは、概念の展開上、知識的な要素以外のモノから入る。この場合、感覚器官の精度の問題が、常にある。『先生』と呼ばれる人に習うと、その先生の持つ概念以上のものは体感できない。

簡単にいうと、意識、知識として入ったものは、その表現・意識の質は同等に出来るものの、使えない、あるいは誤解の元に、在らざるを得ない。

時間空間的な要素、身体として入ったものは、体験としては同質のもを持つが、使えない、あるいは自分のものではないと言う、事になる。

内面からくる要素と、外から来る要素を、どのようにマッチングさせるかと言う事は中々難しいもので、常に心をフラットにして、感覚を開いて、思い込みをチェックする必要がある。

『私は○○○さんと友達である』と言うだけで、何か特別な世界にいるのだという感覚を持つ人が、多いようである。また、見なければ信じないとか言う感覚も、感覚器官の精度の問題を度外視した、かなり粗い判断基準である。

確かに、それらは、一つの世界を共有しているがために起こる事なのであるから、間違いではないが、時間空間の捉え方としては、かなり勿体無い気もする。その共通の世界の、『外』にあるモノを捉えるに、意識・心という要素を使うのだろう。意識の範囲は常に誤謬を含む。いわゆる『失敗』はつき物であるが、時間空間のフィルターを通して、認識されるものに関しては、他者との共有が可能で、現実となる。

そのフィルターとして簡単に使えるのが、体であると言う認識が成り立つ。創造的身体活動と言うのはそういうものであろう。

                              桔龍屋識

2008年12月2日火曜日

お知らせ

寒さが一段と厳しさを増してきました。師走、如何お過ごしでしょうか。

さて、12月29日月曜日、大阪市中津にあるヒーリングスペース・ココロにて、揺らぎ整体・祝手内のセ
ッションを行います。朝10時から夜20時まで、一時間枠で区切って行います。


一時間  7000円
45分   5000円
お試し30分
     3000円
の、3コースご用意しました。(通常30分5000円、60分7000円の2コース)

年の瀬の疲れをとり、新しい一年をお迎え下さい。

ご希望の方は、メールにて、お問い合わせ願います。


桔龍屋 黒崎 識