2008年12月10日水曜日

芦分舟・・・あしはあしでも足なんですけど27

先の続きですが、新しいものを表現する事は、26で言ったようなものになると思います。一方、『共有する』事で、それは何になるのでしょう?観察すると、どうもそれは、一般的に言うところの『現実』になると言えそうです。

表現したことが通じない場合、その表現は破棄されて、使える表現だけが、型の様に残ってゆきます。コモンセンスと言ってもいいかもしれないですが、常識、あるいは当然の事といえるでしょう。

疑問をさしはさむ余地が無い、と言う事を、表現する際には使わない場合、何かにつけて誤解を受けます。常識的に考える人たちにとって、型を外れること、それ自体が、非常識と言うことになるでしょう。どのような集団が形成されても、その中にはその集団に必要なパターンが生まれます。そのパターン、構造自体は変わらない様で、詐欺師の集団の中にも、愛情と信頼、憎しみ、忠誠心と裏切りがあるといえるでしょう。

今までの膨大な時間の経過の中で受け継がれてきたものと、共有することで、型になってゆくのでしょうか?

まったく新しい概念と言うのは、他人に理解されないので、無いに等しいものです。それぞれの個が、何かに感応して、産み出す所のものが、一定の影響力を持つことで、初めて新しい概念は理解されるようです。

百匹目のサルと言う話は有名ですが、そのようにして出来上がったものが、伝統的なモノの流れの中には在るのでしょう。

ばか者にしか出来ないこと、と言うものがあります。

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