2008年12月6日土曜日

芦分舟・・・あしはあしでも足なんですけど26

常々思っていることですが、直接ある特定の人・物を知っていると言うことと、その人の書いた物や、モノの映像で知っていると言うことの違いは、何処にあるのだろうかと言う事。実際の脳内の処理はさほど差は無いはずである。感情の動きも、知識としての処理も、その受け取った人のベースに依るからである。情報としての質は、両者には違いは無い。

とすると、何処に違いがあるのか。知識による受け取りは、その概念や知識の範囲でしか展開しないので、その活用は、内面的な影響で常に誤謬を含んでいると言う不安定感がぬぐえない。

一方、直接時間と空間を共有したものとして受け取りは、概念の展開上、知識的な要素以外のモノから入る。この場合、感覚器官の精度の問題が、常にある。『先生』と呼ばれる人に習うと、その先生の持つ概念以上のものは体感できない。

簡単にいうと、意識、知識として入ったものは、その表現・意識の質は同等に出来るものの、使えない、あるいは誤解の元に、在らざるを得ない。

時間空間的な要素、身体として入ったものは、体験としては同質のもを持つが、使えない、あるいは自分のものではないと言う、事になる。

内面からくる要素と、外から来る要素を、どのようにマッチングさせるかと言う事は中々難しいもので、常に心をフラットにして、感覚を開いて、思い込みをチェックする必要がある。

『私は○○○さんと友達である』と言うだけで、何か特別な世界にいるのだという感覚を持つ人が、多いようである。また、見なければ信じないとか言う感覚も、感覚器官の精度の問題を度外視した、かなり粗い判断基準である。

確かに、それらは、一つの世界を共有しているがために起こる事なのであるから、間違いではないが、時間空間の捉え方としては、かなり勿体無い気もする。その共通の世界の、『外』にあるモノを捉えるに、意識・心という要素を使うのだろう。意識の範囲は常に誤謬を含む。いわゆる『失敗』はつき物であるが、時間空間のフィルターを通して、認識されるものに関しては、他者との共有が可能で、現実となる。

そのフィルターとして簡単に使えるのが、体であると言う認識が成り立つ。創造的身体活動と言うのはそういうものであろう。

                              桔龍屋識

0 件のコメント: