2008年8月22日金曜日

日々の変化

意識するものを変えると、対応が変わってくる。それは、徐々にではなく、即座に変わるようである。初めてせ整体術をしたころは、なかなか骨自体を意識する事が出来なく、ましてその位置の矯正と言うのは、論外と言う感じである。
カイロプラクティックの解剖実験では、筋肉をとっても、筋をはずしても、曲がった背骨は動かず、最終的に、骨を取り巻いている骨膜か何かを取り去ると、勝手に骨は元の位置に戻る事がわった。それを受けて、カイロ系の手技療法や、日本や各地にある整体術的なものは、瞬間圧を加えて矯正するのが主流である。それが危険であるのは、例を待たずに判る事であるが、そのような手技療法とは、違う角度で身体に向かうと、どのようなものの見方があるだろうか?
西武運動療法(?)のような、名前であったと思うが、そこは寝台に乗り、ベットの角度を変え、臍に軽く空気圧を与えるだけで、身体のバランスを整えていた。骨格の矯正と言う点だけでいうと、音楽療法で、骨格が矯正されたと言う事例(もっとも、それだけが原因とは言えず、何かの要因が、時間経過を経て発したともいえる)もあるし、実際私も、足を持って振っているだけで、胃の後ろ辺りの背骨の変位を矯正した事もある。直接触ることなく、その位置を調整する事は、身体を一つの袋状の塊として捉え、表面だけを意識し、そこに情報はすべて現れていると考えながらすることで、比較的容易に骨格は矯正される。

実際のところ、日常的に肉体から骨が露出するという事はありえなく、解剖学的な『常識』を共有しているから、骨はこのようにしてある、と思っているだけで、実際のところ、わからない。開けば確かにそれはあるのだから事実あるのだともいえるが、開いた瞬間、そのように見えているだけで、表面化するまでは、どうなっているかは実際問題としてわからない。私たちは何者においても、その表面しか知らないのであって、中身はどうなっていても、実のところは、憶測も出来ないのである。

表面を丁寧に探るだけで、その中の状態は、共通認識としてではなく、『私の見たもの』としてたち現れてくる。

                          桔龍屋識

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