2008年11月27日木曜日

揺らぎで一言   まとまったもので書いてみました

揺らぎによる、自然治癒力の活性化は、整体とは一見かけ離れているようにも思えます。音楽療法と言うものがありますが、音楽を演奏したり音楽遊びをするタイプのものと、音楽を聴くことで癒しを引き起こすものがあります。実はこの聴く方に面白い報告があります。モーツァルトの楽曲には、この『揺らぎ(1/f・・・f分の1)』が多く含まれていると言われています。耳から音として受け入れますが、振動は、からだ全体で受け止めています。
周波数の低いものは、腰や尾てい骨に響き、高くなるにつれて、頭部に響きます。250hz~4000hz位まで反応すると言う研究もありました。音楽療法で、骨格の矯正が成された例は少ないですが、報告されていると言います。CDによる演奏と、生のアコースティックギターや、ピアノの響きの違いを体感したら、その振動と言うものが、頭として聴くのではなく、からだとして聴いているということが解ると思います。

金魚運動と言うものがありますが、揺らすことで、脊柱の左右の副脱臼を治すとともに、胃腸の働きを活発にする作用があります。もともと腸は、大食したり減食したり、硬いものを食べたり流動食を取ったりするために、あたかも蛇がカエルをのんだごとくある箇所は膨張し、ある箇所萎縮し、またあるところは過腸結腸といって弾力を失ったゴムのように伸びきっています。こうした腸の太さを揃え、また麻痺している箇所の神経を再び働かせ、伸びすぎた腸は生理的に正常な長さにするのが、この金魚運動の目的です。

したがってこの方法を頻繁に実行していれば便秘に苦しむことがなく、下痢や腹痛もなく、腸捻転、腸閉塞、虫垂炎(盲腸炎)に罹ることがありません。例え何かの拍子でこうした病気に罹ったとしても、きわめて軽傷ですみ、金魚運動で治ります。脊柱が左右に副脱臼しているということは、左右の筋肉にも異常がある証拠でありまして、
たとえていうなら胸椎5、6、7番が右へ湾曲しているということは、脊柱の右側の筋肉が硬直しているということです。したがって左側の筋肉は弛緩していることになります。金魚運動はこうした筋肉の硬直、弛緩も生理的に治癒します。

心臓も一定のリズムを打ちます。潮の干満も一定のリズムを表現します。実は、免疫機能も、交感神経、副交感神経の二つの変化によるリズムによって適切に働きます。昼と夜の変化と同調しているとも言います。興奮・刺激と静寂・弛緩の変化のリズムです。陰陽と例えて話をしますと、人の身体も、右左、表裏、内外の、陰陽の相関関係を見て取ることが出来ます。自律神経の活動の波は、ホルモンバランスや、筋肉の緊張など、色々なところに、現れます。

一方身体には、陰陽のバランスの要があります。腰と腹の中ほどに重心があります。また、正面から見た真ん中と、横から見た真ん中に、つまり身体の中心に軸があります。首の辺りに上半身の重心があります。腹は実の重心。首は虚の重心です。そしてそれは、呼吸によってつながっています。そして、呼吸はココロとつながって
います。
私が調整するのは、その重心と軸です。あなたの持つ身体のリズムを感じながらより良い状態になるよう、アプローチしてゆきます。
桔龍屋 識     

2008年11月26日水曜日

癒しと言うこと

ネットである人の日記をみて、想いを新たにしました。

『癒しと言う言葉がうさんくさい』ということは、少し冷静になれば直ぐにわかることです。誰かが、何かが癒してくれると言うことはありません。体が、自ら癒えて行くものです。

それを、どのような目線でサポートするかと言う事が、本来の医療の立場であると思います。

薬が、医者が治すのではありません。療法が、治すのではないです。体、そのものが活力を持って動くなら、治る物は直ぐ快方に向かうし、時間や条件が必要なものは、その条件に合致すれば治ります。

命の持つ『葛藤』、極端な言い方になりますが、生きてゆこうと言う生命力と、その生命力の更新とも言うべき細胞の死滅。それが、体感できるのが、病、と言う事が出来るでしょうか。

私は、日ごろから、病を利用して、その現象の意味を全うさせるモノは何だろうかと、考えています。

チベット仏教医学などでは、意識のあり方が病を生むとしていますが、意識のあり方の何処をどのように操作すればよいのか、頭で解っても使えないので、手の内の感覚として再構成出来ないものかと探求しています。

2008年11月21日金曜日

体の使い方

体の使い方などと題をつけましたが、今までのことを総合すると、結局は意識の使い方に行き着きます。そこで意識をどのようにコントロールするかと言うことになるわけですが、言い換えれば、自分の心をどのように扱うかと言うことになるでしょう。

ココロを解体して、アプローチするための何がしかを導き出そうとすると、そこには、欲と情の二つが出てくるのではないだろうか?情も、欲も、身体や社会を構成するための一定の、設定された反射・・・と見ることが出来る。より良い方法、手続きがあるなら、更新可能なものと『見立て』る事で、その動きを把握することは可能になると言える。

合気道や柔術系の関節技を、単に痛さの面だけで捉えると、筋肉的、骨格的な危険のシグナルとして受け取ることになる。

一方、今ある場の中での、情報の流れとして受け取ると、場の軸を変更することで、痛みと言う情報が、自分の体と、そこに生まれる反応から来る、感情、またその感情を方向付ける欲のそれぞれに分解されて、再統合しようと、あらたに情報収集し始めることがわかる。

それが行われるときに積極的に関わるなら、また面白い変化を導くことが出来るだろう。

続く

桔龍屋識

2008年11月12日水曜日

病の相

ずいぶんと間が空きました。その間に、色々な交流の中で、使っている感覚を整理できたように思います。人と言うのは、その居る環境によって、もっている能力やセンスを変化させたり、あるいは表現を限定した利しているという事を、確認したように思います。

場の意識とでもいうとわかりやすいのかもしれません。他人事のように扱えるし。スタンスを変えることで、それは変わってゆくし、同じ事をずっと言っているのにもかかわらず、意味を違えてとり、ようやくそれが通じるようになると、状況がまったく違うものとなっている。面倒な事や、感情的な事では特にありがちなのではないかと思います。

勝手な解釈というのは、つまりは、物事をすでに知っているパターンに置き換えて認識しないと、理解できないということが、物事の受け取り方の構造だからでしょうか?、状況に対するその場の参加者の認識が、いくつか現れて、それぞれの差と、実際の出来事の差が丁度良いなじみを持つまで、続きます。

一個人の中にも、そのような思い込みと、実際との差異が色々な感情や欲求となって現れているようです。時として病と現れ、時として、揉め事として現れ。どこに、どのように調整するか決めてしまえばそのように体は反応します。それが起きないのは、どの価値観で選択するか、明らかになっていないからです。

そのように捉えながら、身体のほうを調整すると、状況も程よく変化するのではないかと、検証するために、今度モニターを募って、祝手内を行います。

今後、毎月二回くらい、夕方から、夜にかけての時間帯に、行います。大阪は中津、『ヒーリングスペース  ココロ http://www.healing-cocoro.com/about.htm』に於いて開催します。

桔龍屋識

2008年8月22日金曜日

日々の変化

意識するものを変えると、対応が変わってくる。それは、徐々にではなく、即座に変わるようである。初めてせ整体術をしたころは、なかなか骨自体を意識する事が出来なく、ましてその位置の矯正と言うのは、論外と言う感じである。
カイロプラクティックの解剖実験では、筋肉をとっても、筋をはずしても、曲がった背骨は動かず、最終的に、骨を取り巻いている骨膜か何かを取り去ると、勝手に骨は元の位置に戻る事がわった。それを受けて、カイロ系の手技療法や、日本や各地にある整体術的なものは、瞬間圧を加えて矯正するのが主流である。それが危険であるのは、例を待たずに判る事であるが、そのような手技療法とは、違う角度で身体に向かうと、どのようなものの見方があるだろうか?
西武運動療法(?)のような、名前であったと思うが、そこは寝台に乗り、ベットの角度を変え、臍に軽く空気圧を与えるだけで、身体のバランスを整えていた。骨格の矯正と言う点だけでいうと、音楽療法で、骨格が矯正されたと言う事例(もっとも、それだけが原因とは言えず、何かの要因が、時間経過を経て発したともいえる)もあるし、実際私も、足を持って振っているだけで、胃の後ろ辺りの背骨の変位を矯正した事もある。直接触ることなく、その位置を調整する事は、身体を一つの袋状の塊として捉え、表面だけを意識し、そこに情報はすべて現れていると考えながらすることで、比較的容易に骨格は矯正される。

実際のところ、日常的に肉体から骨が露出するという事はありえなく、解剖学的な『常識』を共有しているから、骨はこのようにしてある、と思っているだけで、実際のところ、わからない。開けば確かにそれはあるのだから事実あるのだともいえるが、開いた瞬間、そのように見えているだけで、表面化するまでは、どうなっているかは実際問題としてわからない。私たちは何者においても、その表面しか知らないのであって、中身はどうなっていても、実のところは、憶測も出来ないのである。

表面を丁寧に探るだけで、その中の状態は、共通認識としてではなく、『私の見たもの』としてたち現れてくる。

                          桔龍屋識

2008年8月19日火曜日

この頃の変化

ふとした切欠で癖のある療術家と交流が始まっています。ふたを開けると、実は似たもの同士のようで、つまりはわたしも、かなりの偏屈。自分の中の感覚を信じて、良いもの悪いものを判断しつつ、長い間生きましたが、衝突と言うより、理解できない、理解されないと言うものばかりだったと思います。

さて、彼との交流で、私の中での感覚と、それを養う手段の確認と、表現する場が、広がっているように思います。肥田式強健術というのは、結構マニアックなもののようですが、それを研究し成果を出すと言うのは、殆ど例がないと言う事です。かの強健術は、肥田春充翁の残した道であるので、他の者は通る事ができない、と言う意見さえあります。

そう考えると、すべては、その人だけの道でもあるわけで、参考にする事は、残されたものと、それに向かう姿勢でしょう。それを自分の感覚にマッチングさせたときに、私の中に、肥田翁の意図したものが現れると思います。

前の土曜日に、友人のセッションルームを借りて、祝手内のセッションを行いました。そのとき、以前セッションされた方に、『以前と同じ肌理の細かい調整と、それに加えて、自分自身の気(血液)の流れるのを感じた』と感想いただきました。この方自体が、結構敏感な方なので、普通の人とは感想自体が違うのですが、その分、こちらの施術のときの、意識の使い方が、どう反映されているか判り、為になります。

今回は、呼吸と血流、身体の中での流動性について感じる事があり、それを反映させていました。今後それを使って、同じような手応えとか、反応を確認できれば、さらに自己の研鑽も進められると考えています。
今回のセッションに来ていただいた皆様、ありがとうございました。

                                桔龍屋識

2008年8月5日火曜日

療術の方法

最近は、真面目と言うか、冗談がきついと言うか、意識の高い療術家と交流があり、にわかに深まっています。どうも、性格や、用いている感覚は同じものの様ですが、結果できあがった世界は違うものでした。

私が、このような身体と意識の係わり合いの世界に入り込んだのは、色々要因があったのでしょうが、その最大のものの一つは『すべては私の中に用意されている』と言う予測と、それを如何様に引き出し、封印を解いて、活用する限界はどこにあるのだろうか?というものです。知識を溜め込む事によってでも、経験を蓄積する事によってでもなく、経験の質を変えることによって、本来持っているものを引き出そうと言う目論見です。
その中で、合氣系の武術に遊び、東洋医学に触発され、日本の古陰陽道をかじり、肥田式強健術を再び注目しています。10年以上前に、何気無く買った、個性豊かな著者たちの本を開けば、妙になれる感覚があります。理解するとかしないとか、と言う事ではなく、よく、肌がなじむと言えばよいでしょうか。今まで、色々な人に教えてもらった事を整理しつつ、、私の感覚も今一度整理し、純化し、強化しておこう。

そうしないと、せっかくツワモノどもにまみえる機会が来ても、存分に楽しめない。
とにかく、一筋縄ではいかない療術家が集まりそうです。鍛えさせてもらえます。感謝。

                                         桔龍屋識