2008年2月5日火曜日

芦分舟‥あしはあしでも足なんですけど16

痛みを、痛みとしてではなく治癒の作用の一則面として観ると言う事と、そこから来る情報を、現在の身体の歪みや、不具合に、適切に渡すことで、現在の動きをそのまま活かし、変容させることが出来ないだろうか‥と言うのが、祝手内へと至る、着想です。

そのようなプロセスは一般的には、自然治癒力と言われる過程ですが、それに、どう関ってゆくかと言う事になります。
普通それには、身体の機能を正常化する、あるいは活性化する事で、免疫機構を整え、自然治癒力を高めると言う手続きになります。それには、質の良い材料、つまり食糧ですが、それを、十分に消化、つまり身体が使える状態に変質させ、そして、それを免疫機能等のために使い自然治癒力を活性化させると言うことになります。

これは、分子生物学的なアプローチで、現代医学、解剖学的な見立ての延長と考えて差し支えないと思います。

東洋医学では、医食同源と言いますが、食物は、消化され、栄衛となり身体を巡ります。それを巡らせるのは気血です。気は、いわゆる「気」です。血は血。衛は生体反応ー生体現象、栄は滋養作用という区分けが成立するでしょうか。

それでは、手技として、それをどの様に観て行こうかと言うことですが、手技としては、食に相当するものは、対象になる身体以外の環境として見立てた方が良いように思います。どう言うモノを食べていたかと言うより、食べたものにどう反応しているか‥を正確に読み取る必要があると言うことと理解しています。栄養があるものでも、食べ過ぎや、食傷している場合は、吐き出した方が良い時もあります。

具体的には、触覚と視覚、聴覚をリンクさせて使います。触覚で分かるのは、重さや大きさ、湿気、温度です。あと、動き具合の滑らかさ等を知ることが出来ます。
視覚では、色や、形、捻れ具合。
聴覚では、声の玻璃、空間の状態、間合い等を見ます。そして、それらの全てを、一番気に留まる箇所に一極集中させて、その箇所の状態を、全て同時に感覚すると、処理仕切れずに勝手に必要な情報にまとまります。それが、どの状態にあり、どこへ向かい、どの様に変化するのかを、見立ててゆきます。

ここが、一番難しいと言うか、危ういと言うか、そういう部分でしょう。思い込みが入ると、その思い込みを保証するような情報しか組み立てられず、治癒と言う方向には進めないようです。

一般的には、外科的処方、薬品による処方が、病を駆逐する方法論としては正しい様な印象を持ちますが、それは、解剖学的な身体が人間であると確認し承認された環境で言えることで、解剖学的身体を拒否した環境に於いては、極端な場合、全く機能しないことがあり得ます。
そのような環境、例えば、未開地等と区分けされる世界に於いては、呪術的処方の方がより完成度の高い治療をおこない得ることがあります。
そこら辺の事情は、医療人類学と言う分野に尋ねるのが、事例を多く目に出来ると思います。

その地平で見るとき、外界があって、身体がそこと関ることで、身体そのものに変化がある‥と言う図式では、呪術も外科的処方も、医薬品も、全く同レベルのものであると言うことを、確認しておく必要があります。共通の認識も、それ自体が実は幻想であると言うのも、神経に余裕があるなら、改めて確認すると良いでしょう。


桔龍屋記す

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