2008年1月19日土曜日

芦分舟‥あしはあしでも足なんですけど4

健康であると言うのは、医者や療術師が言うから健康なのではなく、その人間そのものの創造性の活動そのものと捉えたい。

医者が健康と言うときは、その見立ての中で一定の基準値より正常寄りか、異常寄りかと言うことを観て健康か病気かを決めている。ということは、時代や、身体に体する常識が違う、江戸時代や、それ以前、また諸外国に於いては病気や健康、そのものが違うと言うことでもある。

物事を認識するとき、私達はおなじものを見聞きしていると感じているが、実際は、それぞれ異なるものを同じであると括る事で、はじめて共通した認識をして、良い意味での誤解の上に成り立っている。
フランスの画家の集団とドイツ人の画家の集団が同じ草原で出食わした時、フランス人の自由奔放な描き様をみて、ドイツ人は一つのもチーフを全員で厳密に描こうとしたが、結果出来た画は、一つとしておなじものは無かった、と言う笑い話がある。

見えたものを、一度脳で処理できる状態に分解し、再びそれを、再構成し、今度は、見たものとして表現し直すと言うことをしているのであるが、そこにはその身体的な特長、時代性、意図したものが、無意識的に混入する類の物です。

絶対に変えてはいけないと言われる、聖書のテクストや、イコン画、等にもその時代で理解されたようにしか伝わって行かなかったと言う痕跡が残っています。

正確にそのものが残っていると言うことは有り得ない話で、常にその時点での今からの視点で、受け取っては、変換し、消えて行く、流動的な物であると言うのが、恐らく正しい認識であると言えると思います。
それを逐一処理するのは非常な浪費であるので、共通に認識していると言うプロトタイプを、つまり常識ですが、それを用いることで、浪費はほとんど起こらないと言って良いのではないかと思えてしまう位なのではないだろうか。

我々播磨陰陽師達の瞑想法は、音を聞くことで行われるが、より生の情報を脳に届けているとも考えられる。

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