2008年1月25日金曜日

芦分舟‥あしはあしでも足なんですけど9

引いては、人間をどの様に捉えるかと言うことが要点となります。今の知識で健康と言うことは、それほど確かなものでも、また善いものでもないと言うことでもあります。

常におなじ状態と言うものは無く、それが一定に見えていると言うことは、周囲の変化に対応仕切っていると言うことでもあります。野口整体で言われるように、風邪は病気と言うよりはむしろ、外界の変化に対応するための、身体の適正反応と見ることが出来ます。

と言うことは、風邪に限らず、各種の不具合は、その対処の仕方如何でいか様にもその後の状況を選べると言うことでもあります。それを意識的に観察するか、常識的に観察するかの、対応の差によって、得られる情報の質には雲泥の差がでると言えます。

しかし、難しいのは、その感覚に対する自信と言いますか、その感覚が適正なものか、調べる術は無く、というのも、個々の状況によって、こちらの反応の基準も、常に変化していると言えるからであります。

私、が、どう、感じているか?どうしたいか?
私、が、何を認め、何を拒否するか?

それだけしか、そこには確実のものは無いと思えます。極、閉鎖的な感じに成るかも知れませんが、解るものにだけ解る、もしくは、その感覚もつ限界までしか解らない、と言うことになります。

勢い、と言う詞で良く言われているようですが、身体と心が合致して、それに向かう‥つまりは、楽しいことに、面白いと感じることに、集中しているかどうかの問題であるとも言えます。

その究極の状態は、死ぬか生きるか‥と言う境目で、いうなればその状態は日々起こっている一瞬一瞬の変かでありますが、それを夢とうつつに見立てたのが日本の感覚の中にあるようです。

夢の間は魂があの世に行くと言う考え方がありますが、起きている、うつつ、の間は生き、寝る夢の世界は死後であり、起きてまた生まれると言うサイクルの見立ては、自分の感覚の変化を認識可能なサイクルとして認知する、と言うことなのかも知れません。太陽の運行のサイクルと言えるでしょう。

呼吸を自分の身体のリズムとして考え、寝ると言うことを、太陽の運行の体内リズムとして関る事が可能でしょう。

桔龍屋記す

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