2008年1月23日水曜日

芦分舟‥あしはあしでも足なんですけど8

何かを意図せずに、行うことに、この療法の要がある‥と言うようなことを、天真療法の創始者、肥田春充氏はおっしゃいましたが、本当は全ての手技療法は、そのようなもので、意図を持つと、かえって十分にその機能は発揮できないようです。


先にも言いましたが、心が動くときには触れないのが肝要であるとは、江戸時代の按摩の手引書の注意書きにある通りですが、裏を返すと、術者の思っている身体や精神、人間像がそのまま影響すると言うことでもあります。

時代性と言うものも、意識するしないに関らず、また、それを受け入れたり、拒否するしないに関らず、反応しているものですから、それも術者と、病客の関係の中で、同時に相互に影響しあっています。

健康に対する知識が病を創り出すと言うことが、往々にして起こっていることです。どうしたら善いか分からないのは身体に、そして、その場を仕切る集合意識的な働きに任せたら良いわけですが、明晰な知識であればある程、その場合身体や、場の本来持つ自浄作用はその知識内に限定されて活動すると言うことが出来るでしょう。
プログラムとかでは、そのプログラムを動かすために、他のそれとは機能的に関りの無いプログラムが依存関係として必要になることがあります。複雑な機能を持つ物であればある程そのような依存関係がありますが、その関係ないプログラムがインストールされないと、結局本体のプログラムはインストールできず、機能しません。

それと同様に、身体をどの様な視点で見立てるかが、その病気のプロセスを消化させ、持っている機能を活性化させるかさせないかのポイントになると考えられます。

引いては、人間をどの様に捉えるかと言うことが要点となります。今の知識で健康と言うことは、それほど確かなものでも、また善いものでもないと言うことでもあります。

桔龍屋記す

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